光のフィルメント
「ちょお、コレ見て!」
声をあげたのはエルマーナだった。地面にうずくまって何かを拾い上げたかと思えば、掲げるように右手を挙げた。
「何だよ、うまそうなモンでも見つけたのか」
大股で歩きながらスパーダが近づく。そのまま掲げられた手の中を覗き込むと、あぁ? と声をあげた。
「んだよ、ただの石ころじゃねーか」
つまらなそうなスパーダに対し、エルマーナが指を振ってみせる。その顔には、不敵な笑みすら浮かんでいる。
「甘いなぁ兄ちゃん、コレただの石ちゃうで」
何事かと寄ってきた仲間が銘銘に覗き込むと、傷だらけのグローブに包まれた手のひらの上、不思議な色合いの石が乗っていた。
「本当だ、これ鉱石だね」
声に引かれてやってきたルカが、手のひらの石を指で撫でる。
ギルドダンジョン内に設置された松明の明かりを受けて、ちかちかと鈍く光るそれは、滅多に産出されないという鉱石だった。武器を作成する際の原料としてはもちろん、精錬にも利用される部類のものだ。
「マジで? すごいじゃん!」
「まぁ本当、お手柄ねエル」
尖った部分の少ない石はなかなかに大きく、買い取りに出してもいい値段が付きそうだ。旅の資金に困っているわけではないが、臨時収入はあるに越したことはない。
手柄だと言いたげにふんぞり返るエルマーナの頭を、イリアやアンジュが代わる代わる撫でてやる。子供独特の張りのある頬が、嬉しそうに綻んだ。
「思わぬ収穫だな、落とさないように持っておけ」
「そーだぞ、落としたらご飯が食べられないんだぞしかし」
リカルドの言葉に続くようにコーダが跳ねて同調する。万物もれなく食事に繋がるあたりが全くもってコーダらしい。
「つうことはアレか、この辺にそれと同じ石が埋まってるかもしれねぇってことか」
「まぁ可能性がないわけではないな」
鉱石の欠片が採れるということは、この周辺に金鉱が眠っている可能性は大きいだろう。人の出入りがあるギルドダンジョンとはいえ、まだ隅々まで探索され尽くしているわけではない。
「本当?! じゃあガンガン探さなくちゃじゃん!」
スパーダとリカルドの会話にイリアが勢いよく食いつく。大きな瞳が爛々と金目色に輝いているのは、恐らく気のせいではないだろう。
「せやったら競争しようや!」
「それ名案! ルカ、あんたも手伝いなさいよ!」
「ええ、なんで僕まで……」
急なとばっちりを食らったルカが困ったような声を出すが、当のイリアはお構いなしだ。ルカの腕を掴んで引きずっていく様は潔ささえ感じさせる。
「お前たち宝探しもいいが、本来の目的を忘れるなよ」
「まぁ魔物退治の合間にやる分にゃいいんじゃねぇの」
にやりと笑んでみせるスパーダに、リカルドは小さく肩を竦める。呆れたように溜息をひとつ零したが、表情はどこか柔らかい。いつものやり取りに、アンジュはこっそり微笑んだ。
「全く、困ったものだな」
「いいじゃないですか。急ぎの依頼でもないでしょう?」
小金稼ぎと腕試しを兼ねて受けた依頼だが、今の一行なら難なく突破できる。多少の寄り道も許されるだろう。
「手間を増やされるのだけは勘弁して貰いたいものだな」
無軌道に走り出す子供たちを諌めつつも、一定距離を保ちながら後を着いていく。アンジュもそれに倣うように歩き出す。
きらきらと眩しいものは暖かくて居心地がよくて、たまらなく幸せで。敵に追われつつの旅の途中だとは思えないほど、穏やかなものだった。
暖かさに背を向けた事もあったが、それでも紡いできた絆は途切れる事なく続いていた。彼の裏切りも、彼女の離反も、少年少女の真実も全てまとめて抱擁し、共に歩き続けてきた。
そうして、はたと気付いた。
忘れていたのだ、どんな物語もいつかは必ずエンドマークがつくということに。
運命は細く長い絹糸のようなものだ、とアンジュは思う。
遥か昔、記憶の片隅にしかないような場所から現世まで続く、細くしなやかな糸。それはうっすらと、しかししっかりと自分たちの心に巻きつき、姿を見せない。時折思い出したように軋み、その存在を主張する。
しなやかな糸と糸は引き合うように絡み、結わう。細い糸は複雑に絡まりあい、立ち消えかけていた前世の縁を再び繋ぎ合わせ、強く揺るぎない物に変えていく。
そうして不思議に絡み合う糸に導かれアンジュはルカたちや、かつての愛弟子・ヒンメルの転生者であるアルベールと巡り会うことが出来た。
決して明るい事ばかりではなかった。それでも沢山の出来事を重ねる度に、互いを繋ぐ糸が強く結びつくのを感じていた。絆という形の見えないものではあったが、確かにしっかりと結び合っていると実感した。
レグヌム近くの街に宿を取ったのは昨日の事だ。
全てが終わったら全員で食事をしようと約束していたこともあり、その日の夕食は今までになく贅沢な物になった。
普段は頼まない肉料理もたっぷり頼み、大人たちはボトルワインを三本も空けた。甘いものも必要だと珍しく全員がデザートを取った。大いに食べて、大いに笑う。激戦の疲れを癒し、再び訪れた平穏に感謝しながら眠りについた。
それなのにまだ日も昇りきらないうちに目が覚めてしまったのは、焦燥感からだろうか。もう一度眠ろうと目を閉じてみたが上手くいかず、結局ベッドを抜け出して来た。熟睡しているイリアたちを起こしてしまわないようにと選んだ場所は、人気のないバルコニーだった。
朝と夜の狭間、青白く静謐な空気が周囲に満ちている。小さく息を吸うだけで意識はするすると鮮明になっていった。風は夜の冷たさを孕んで、アンジュの髪を揺らめかせていった。
不意に物音がして、周囲を見回す。木が軋むような音はバルコニーの真下から聞こえた。そういえば下は宿屋の玄関になっていた事を思い出すと、旅立つのであろう人影が目に入った。旅支度なのだろう、マントを羽織った旅人は何を思っているのだろうか。
小さくなる見知らぬ人の背中からは何も伝わってこない。あと数時間もすればルカやイリアは勿論アンジュもあの旅人と同じようになるのだろう。
絡んだ糸が解け、元ある場所に戻るように。行くべき場所へ行かなくてはならない。
「セレーナ」
名前を呼ばれる。耳に馴染んだ声に振り返ることはしなかった。近づく気配はアンジュの隣に並び、そこでようやく顔を上げた。濃紺の空気の中、するりと頭ひとつ分高い人が隣に並ぶ。
「もう起きていたのか」
「なんだか、目が冴えちゃって」
なにか言い訳をするべきだろうかと一瞬だけ迷ったが、結局本心のままを口にした。
「リカルドさんは?」
「俺も似たようなものだ」
リカルドはそれだけ言うと、アンジュの隣に並んだ。彼も起きたばかりなのだろう、いつもより乱雑に髪を結わえている。いつもは乱れひとつない黒髪が、あちこち解れているのが少し珍しい。
「今日はいつ頃出ましょうか」
「写真の件もあるし、昼前には出たいところだな」
写真というのは、昨夜の食卓でルカが言い出した事だった。最後にみんなで写真を撮りたいんだ、そうはっきりと通る声で提案したのだが、張本人はどこか恥ずかしそうな表情をしていた。引っ込み思案なルカにしては珍しい提案だと思ったが、それも彼の成長の証なのだろう。
「疲れているだろうからな、あまりせっつくのも酷だろう」
そう零す人の口元はやわく笑んでいる。髪型が違うせいもあるのだろうが、いつもの張り詰めた雰囲が少し和らいだように感じる。
「そうですね、折角ですし、ゆっくりしましょうか」
折角だから、と言った後で思わず口を噤んだ。融けきらない砂糖のように舌の上に違和感が残る。
ちらりと横目で様子を伺うが、リカルドは手摺りに寄りかかり景色を見ているようだった。捲ったシャツの袖口から筋肉質の腕が伸びて、その輪郭が薄闇にぼんやりと浮かんでいる。
「変わらないものだな」
ぽつりと呟いた声。同じ方へ視線をやると、グラデーションがかった夜空が視界に入る。濃紺の空は上へ追いやられていたが、まだ夜の余韻が残っているのか星が出ていた。
「世界は元通りになったと言ったが、何が変わるわけでもない」
創世力に選ばれた二人――ルカとイリアが掲げた、形なき偉大な光。二つの願いを同時に叶えた事により歪んでしまった理は、永い時を経てようやく元の形に戻った。
しかし何が変わったわけでもない。当たり前のように星は瞬くし、夜は明ける。それこそ永く続いてきた人の営みも変わることはないだろう。
微かに残る転生者としての部分が世界の在り方が変わった事を教えていたが、それもいずれ分からなくなるのだろう。ひっそりと、しかし確実に世界は生まれ変わったのだ。それ以上多くを望むのは、欲張りが過ぎるかもしれない。
「でも悪くはない、でしょう?」
「まあな」
手摺りに手をかけたまま、小さく伸びをする。返事は素っ気なかったが、声色は充足感に満ちていた。あまり表情を崩すことがない人の笑みに、こちらまで嬉しくなってしまう。
「ねぇリカルドさん」
呼ばれた人がこちらに向き直る。少し夜目にも慣れたのか、薄闇の中でも表情ははっきりと見えた。切れ長の目に被さるように黒髪が一房垂れ落ちている。
「お願いがあるんです」
「なんだ」
聞き返す声は落ち着いている。何か話しかけると返ってくる、いつもの柔らかな音色。耳を打つそれから一拍置き、小さく深呼吸をする。
「抱きしめてくれませんか?」
言葉にも声にも淀みはなかった。切れ長の目が、驚きに丸くなる。朝闇の中でもそれはしっかり捉えることが出来た。
「……理由を聞いてもいいか」
「理由はありません、ただ、そうして欲しくて」
思うままを口にする。冷たい空気が唇に触れて、少しだけ痛い。向かい合うような形でリカルドの顔を見つめると、ひとつ息を吐いた後、何かを決めたような表情を浮かべた。
「分かった」
大きな手がアンジュの肩を掴んだ。もう片方の手は背中に添えられると、服越しにじわりと熱が伝わってくる。
体の大きな人の抱擁は、その見た目に似合わず優しいものだった。引き寄せる力のままに身を寄せると、少しだけ前髪が揺れる。
肩と背を抱く腕がゆっくりと背中全体を覆うように動き、そのまま覆い被さるように抱き込む形になる。息苦しさなど全くない、優しい抱擁だ。気遣うような動きが嬉しくて、頬を胸元に擦り寄せた。
続いて息を吐き出そうとしたが、なぜだか上手くできない。ややあって漏れた吐息はやけにぎこちなく、その所作で初めて自身が緊張しているのだと気付いた。
「あったかい」
アンジュの唇が動き、言葉を落とす。そのままシャツの布地に吸いこまれそうなほどささやかな響きだったが、リカルドには届いたようだった。
「君は少し冷えているな」
低い声は髪を撫でるような優しさで囁かれた。確かに少し寒いような気がするが、それはリカルドの腕の中にいるからかもしれない。普段子供たちに冷たい、面白味がないと言われていた人の腕の中は驚くほどに暖かかった。
「ね、こうして抱き合うのって初めてですね」
アンジュがリカルドに抱きしめられるのは、これが初めてではない。彼女を守るという役目を担っている彼は、どんなことがあろうとアンジュの安全を最優先に考えて動いていた。
例えばアンジュが躓いてしまいそうな時は体を支え、アンジュに敵が迫っているのなら盾となるように体を割り込ませる。
そんなふうにしてアンジュは今までリカルドに守られてきた。
「当たり前だ。俺たちはそういう関係ではないからな」
そういう関係、とは何を意味するのだろう。抱き合いたい時に抱き合い、睦言を交わし、口付け合うそんな関係だろうか。
傭兵とその雇い主、出会ってから今までその関係性が揺らいだことはない。その先もその後もなく、ただその形に終始していた。
「不思議ですね、今までは何度も抱きしめてもらっていたのに」
「君は危なっかしいからな」
何度肝を冷やしたことか、と続けるリカルドは今までの出来事を思い出しているのだろう、渋面を隠さなかった。
「あら、それもお仕事の範疇でしょう?」
「君の場合は度が過ぎている。おまけに手癖も悪い」
「手癖が悪いなんて心外だわ、それにあれはご寄進ですよ」
抱き合う男女が交わす言葉にしては、甘みもなにもない。それでも互いの口元はやわく綻び、こぼれる声には少しの悲観も含まれていなかった。
いつもどおりの会話、いつもどおりのやりとり。頭上からもたらされる心地よい言葉に、胸元に頬を摺り寄せた。ほつれた髪の一房が前に垂れ落ち、アンジュの唇を撫でる。
「……これが望みだったのだろう?」
背中を抱いていた手が、巻き髪をゆるく撫でる。髪を梳く感触が心地よくて、ほうと息が漏れた。
「一度でいいから、ちゃんと抱きしめてもらおうと思って」
契約の外で、自分たちの意思でこうしたかった。アンジュは続ける。抱き合うことが何をもたらすわけでもないかもしれない。それでもただ、意味もなく抱きしめて欲しかったと最後まで続けた。
「こんなもの、いくらでも」
続きの言葉をリカルドは口にしなかった。続ける事を止めたのか、続きを言うべきかと迷っているのか、どちらかは分からない。
頬と一緒に胸元に当てていた手を、背中に回す。いつも後ろから見ていた広い背中は、直に触れてみてもやはり大きい。置き場に迷って手をさまよわせたあと、肩の辺りで落ち着かせた。指先に肩甲骨のごつごつした感触が伝わってくる。
「わたしね、あなたに言いたいことが沢山あったんです」
ぽつぽつとこぼれる言葉は、独り言に近かった。リカルドはアンジュを腕に抱いたまま、じっと続きを待っている。
「きっとその時になったら言えなくなるから、今言ってしまおうと思ったのに……それなのに、ひとつも出てこないんです」
説教牧師として人々に説法を説いて回り、ルカたちに教会の定義をかみ砕いて説明してやっていた、いつものアンジュはすっかり形を潜めてしまっていた。想いだけが先立ち、言葉は喉を塞いで体の底に落ちてしまう。
「でもきっと、みんなの前じゃ上手くいえないから、今言おうと思ったのに」
駄目ですね、わたし。自戒のような言葉が零れ落ちる。
「俺も、似たようなものだ」
リカルドが続ける言葉に、今度はアンジュが耳を傾ける番だった。
「君には言わなくてはならないことが、山ほどあったんだが」
朝闇の中に落ちる声は、山風に混ざってしまうほどにささやかだった。近くにいなければ聞き逃してしまうほど微かなそれは、彼の告白なのかもしれない。
「……どうしたものだろうな、上手く言葉に出来ん」
どうしてあの時裏切ったの、とぶつけたい思いも。
どうして話してくれなかったのか、と燻らせた感情も。
何も言わずに言ってしまった事への償いの気持ちも。
子供たちの成長を嬉しく思う、暖かな思いやりも。
アンジュの胸に降り積もるそれらと同じものを、リカルドもまた抱いているのだ。その相似が切なく、また少し嬉しい。
「リカルドさんらしくないですね」
「それはお互い様だろう。いつでも言いたいことを素直に言うのが君だと思っていたが」
「なんですかそれ、ひどい」
「少なくとも、俺は君のそういう所が好きだったんだがな」
こともなげな口調で言われた一言は、とすんとアンジュの胸に落ちる。胸元に顔をくっつけたまま上目遣いで見上げると、ちょうど見下ろしてくる視線とかちあった。口角を吊り上げる笑みからは余裕が感じられて少し憎らしい。
山間からゆるやかに明るさが広がっていく。先程まで濃紫に沈んでいた世界は、少しずつその輪郭を浮き上がらせ、ゆっくりと活動を開始していく。夜の名残はもう殆ど消え失せていた。
「ねぇ、これって凄いことですよね」
生まれた場所も年も身分も全く違う人間が、前世の縁などという細い糸で繋がった。
気の遠くなるほど永い時間を経て姿形が変わっても、こうして今、再び同じ時間を生きている。運命に導かれて、と言い切ってしまうにはあまりにも強く深い繋がり。
「わたしはヒンメルに、あなたはお兄様に会えた。こんな不思議な出会いが本当にあったんですよ」
エルマーナはいとしい我が子に、ルカは最愛の恋人と最上の友に。最後は己の半身に巡り合うことが出来た。
前世の運命に導かれ、今また巡り合う。細い糸が絡み合い、紡いで、織り成すストーリー。最後は世界を作り変えたなんて、まるでおとぎ話かなにかのようだ。
「なんだか夢みたいで、でも夢じゃないなんて」
決して華々しいだけの物語ではなかった。それでも思い出しながら語る声は自然と明るくなる。
「こんな大掛かりな夢はそうないだろうな」
声にほんの少しの笑み。優しい言葉に頷くと、背中に回った手がゆっくりと上下する。熱が移動して冷えていた場所を暖める。
「本当に、夢で終わらせるには惜しい ――」
そこから先の言葉を、リカルドは続けなかった。ぐっと息を詰めるような声がして顔を上げると、少しだけ眉を寄せた人の顔が目に入った。
「リカルドさん」
名前を呼んだ声は知らず震えていた。僅かに伏せた瞼の奥、硝子のように青い瞳が揺れているような気がして息を呑む。
「……本当に、らしくもない」
自嘲するような喋りに、胸が締め付けられる。いつものように目を眇めて唇を歪める笑みがそこにあった。皮肉っぽいその表情は自分へ向けてのものなのだろうか。
「馬鹿げていると笑ってくれていいぞ」
「笑うなんて」
つい先程お互い様だと笑った意味に、今更気付く。リカルドもまた、アンジュと同じ気持ちなのだ。沢山の思いを同じにするのなら、目の裏を焦がすような途方もない熱も、きっと同じように抱いているのかもしれない。
差し込み始めた朝日が二人のシルエットを映し出す。その影が濃くなればなるほど、別れの瞬間は近づいている。
言葉にした端から重みを失いそうで、口に出せない。伝えたい思いは痛いほどなのに、今は何を言っても葉のように軽く飛ばされてしまいそうだった。
伝えたい言葉も、伝えるべき言葉も、それこそ山のようにあったのに。言ってしまえばそこで終わってしまう。
約束を交わすことは容易い。また逢いましょう、と指切りをすることも、愛していると囁いて口付けを交わすことも、望めば叶う。けれど今この瞬間には、どの行為もどの言葉もそぐわない気がした。今の自分たちを留めるための悪足掻きに過ぎない。
差し込み始めた陽が、互いの輪郭を露わにしていく。揃った前髪も、青白い頬も、言葉を繋げようとわななく唇も、瞬間だけでも繋がりたいと抱き合う二人も全てが詳らかになる。
世界が有り様を変えても何も変わらない。相変わらず朝は来るし、日が昇ればいずれ夜も来るだろう。
言葉を紡ぐことは難しく、思いを伝えるのもままならない。上手く立ち回る大人の振りをしている子供が二人、くず折れないように寄り添うだけだ。
「セレーナ」
幾度となく繰り返された呼び名。頬を撫でる節くれ立った手は、何度となくアンジュの危機を救い、時に銃口を向けた。
「はい」
呼びかけに答え、手の上にアンジュもまた自身の手を重ねる。何度となくリカルドを癒し、傷つけた手。じわりと暖かく、いとおしい人の体温。耐えていた何かが綻んでしまいそうで、縋り付くように抱きついて、胸元に顔を埋めた。シャツの生地が頬を撫ぜ、更にその奥から低い鼓動が聞こえる。指先が行き場を探って、布地をがむしゃらに掴んだ。背中を引っ掻いたかもしれない、と思ったが緩めることはしなかった。
それに応えるように、リカルドが強く抱き返してくる。腕の強さは目眩がしそうなほどで、泣き出しそうなほど真っ直ぐに、自分はここにいるのだと伝えてくる。思わず漏れた吐息に混じり、リカルドさん、と名を呼んだ。
「……ごめんなさい、もう少しだけこのまま……」
「ああ」
アンジュの胸に湧き上がる感情を、リカルドは汲んでくれた。
どこまでも人の心の機微に聡い人だ。その顔に似つかわしくないほどの優しさ。
そんなあなただから、と浮かんだ言葉を飲み干して腕に力を込める。ぎゅうと抱き寄せられる熱に、心臓は高鳴るどころか安堵したように鼓動を緩めた。
レグヌムに到着したのは、予定通り昼過ぎになった。
写真屋を見つけて、約束どおり写真を撮った。シャッターの瞬間にエルマーナとコーダがふざけて前に飛び出すハプニングがあったが、無事に撮れているようだ。最後の最後まで騒がしいのが、らしくて笑ってしまう。
「では、世話になったな」
別れの口火を切ったのはリカルドだった。グリゴリの里が気になる、と口にした彼をスパーダが冷やかす。
「リカルドさん。あなたを雇って本当に良かった。心の底からそう思っています」
あの後、自室に戻って仮眠を取るまでの間、どんな言葉を捧げようかと悩んだ。だというのに、出てきたのはひどく味気ないものになってしまった。
雇ってよかった、なんて世話になった仲間に向ける言葉ではないだろう。それでも傭兵という仕事を生業とする人には、最高の賛辞だと思えた。
小さく、しかししっかりと頷くとリカルドは踵を返してその場を後にした。ひらりと片手だけ挙げて見せるのがまた彼らしい。
「バイバイ、リカルドのおっちゃん。また遊びに来たってなぁ」
力いっぱい手を振るエルマーナの姿に悲壮さはかけらもない。気持ちのいいほど爽やかな別れの挨拶。
リカルドの背が見えなくなった後、そっと腕を撫でてみた。あれほど長く強く抱きしめられたのに、腕にも体にも名残すらなかった。かすかな香りすら残さない、あの人らしくて笑ってしまう。
結局交わしたものは何もなかった。愛の言葉はもちろん、口付けも再会の約束もしなかった。
残ったものといえば、胸の奥の熱源ぐらいだった。胸の奥、ガラスケースに収められた魂の欠片がちらりと揺らめいて、巻きついた糸が時折軋んで痛む。時に胸を焦がし、時に行く先を照らす一条の光になるかもしれない。
澄みきった空を見上げる。気の遠くなるほど永い時間を経て出逢ったのだ、今生の数年なんてあっという間に過ぎてしまうだろう。
雲間からの日差しに目を閉じると、ちかりと瞬く細いラインが見えた。寂しくはある、けれど辛くはない。
あえかな糸に導かれ、再び綾なすその日まで。確かにずっと、ずっと繋がっているのだから。