そうだ、旅に出よう

「そうだ、旅に出よう」

旅を始めて最初の宿を今でも覚えている。田舎の小さな宿だった。一緒の部屋になったアンジュはベッドの上で地図を広げていた。
「リカルドさん、ここに行った事ありますか?」
「一昨年仕事で近くまで行ったな」
アンジュが指差したのはテノスの近くの街だった。
「じゃあこっちは」
続いて指差したのはガラムの港。答えを探していると、リカルドの出身を思い出したのだろうはっとした顔をした。
「あと、この島は行かれましたか?」
その次に指先は南方の島を指した。ガルポス近くにある島だが、立ち寄った覚えはなかった。
ある程度答えを聞くと満足したのだろう、アンジュの指は地図上から離れていった。それでも目線はじっと地図に注がれている。どこを見ているのか、リカルドには分からない。
「……なにかあるのか」
アンジュに倣ってリカルドも地図を見る。新しい地図は折り目こそあるものの、痛みも書き込みもない。
「私、あまりナーオスの外に出たことがなくて」
ずっと修道院勤めだったから、とアンジュは続けた。切り立った山々に囲まれた聖都と交流があった都市は少ない。
「だから、少し浮かれているのかもしれません」
はにかむ笑顔が少し強張っているのは、ナーオスの民への引け目故だろうか。
そんな話をした。もうずっと前の事だ。

テーブルを挟んで差し向かった相手は、僅かに瞠目したようだった。光の加減で上手く見えない。
「今ですか」
「今だ」
ゆるゆると頭を振る。それははっきり見えた。
「今更、です」
声色こそ優しいが、否定の声は強い。
「今更無理ですよ、旅だなんて」
「何故だ」
「だって」
声が震えたように聞こえたのは気のせいだろうか。
「だって、私、もう歩けないのに」
ひざ掛けを撫でる手は細く、皺枯れて張りがない。ひざ掛け越しにも分かる脚部のシルエットは細く堅い。役をなさない足は痩せ細る一方で、今や車椅子が彼女の足だ。
「それはお互い様だ。俺も大分視力が落ちた」
現役時代からこっち、目を酷使してばかりいたからだろうか。今は眼鏡で補っているが、このままだと見えなくなるのも時間の問題だと、優秀な主治医から言われている。
「幸い足腰は矍鑠としている。お前が歩けないなら俺が押して歩けばいい」
「その代わり、あなたが見えないものは、私が見る?」
「そうだ」
互いの声色もすっかり衰えた。鈴の音のような声は老いを隠せず、響きの良いテノールはただ掠れているだけに成り果ててしまった。
「……ずっとそうやっていましたものね」
アンジュが出来ない事はリカルドが受け持ち、リカルドが分からない事はアンジュに任せる。そうやって負担をふたりで分け合って、旅をしてきた。急造の組み合わせではあったが、上手くやっていけていた。生まれも育ちも年齢も違う六人と、素性も定かではない異邦人二人を含めた計八人。なんとも歪な一行は知らず世界を破滅から救った。
誰に頼まれた訳でもない救済の旅。あれから数十年、未だに誰からも賞賛されることはない。
「今度は本当に自由な旅だ」
何かを探すための旅ではない。目的もなくただ行きたい場所へ行くだけの気ままな旅だ。誰にも何者にも縛られない旅。困難もあるだろうが、少なくとも敵に襲撃されるようなことはもうない。
「行きたい場所へ行こう」
見渡す限りの花畑も、透き通るほどの湖も、射殺されそうなほど強烈な日差しも、身を焼くほどの強烈な寒さも一緒に味わおう。あの旅で見た景色は世界のほんの一部に過ぎない。その土地でしか食べられない美味も珍味もすべて食べてしまう。胃の容量と時間は少なくなってしまったけれど、幸いに路銀は潤沢にある。
「素敵ね」
「だろう」
どうせいつか終わってしまうのだから、思う存分遊び尽くせばいい。残された時間をどう使うのかなんて、誰に断る必要があるのか。いつかのように互いの手を重ねる。どちらも骨のように角ばり、皺だらけだ。薬指の指輪も空回りするほどやせ細ってしまった。
どうせいつか、再びこの手を解く日が来る。だから、その瞬間までは。

初出:2018年
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