オルゴールの小箱
なくしちゃいけないものは、箱に仕舞っておきなさい。
そう教えてくれたのは叔母だった。物心つく前に両親を亡くしたアンジュにとって、親同然の存在だったその人の教えを今でもまだ覚えている。
最初の箱はキャンディが入っていた空き箱だった。小さな箱は両親の写真と兄との手紙、お気に入りのリボンやきれいな小石を入れたらすぐにいっぱいになってしまった。
その次の箱もキャンディの空き箱だった。一回り大きい箱には、やはり兄からの手紙や野花で作った押し花、叔母から貰ったイヤリングなどを入れていった。
神学校に入ってから、箱を新しくした。今度はチョコレート菓子が入っていた箱にした。前の箱と同じくらいの大きさだったのに、箱の中身は驚くほどに増えなかった。兄との手紙、友人との手紙、信者からの手紙を入れても半分にも満たない。
四隅が変色した手紙があるだけで、小石やらリボンやらといった色味のあるものは全く入っていなかった。学業と神事に追われていたからだろうか、恋人だった人との痕跡は驚くほどになかった。
空っぽの箱を色とりどりで雑多なもので満たしていた少女時代から驚くほどに様変わりしてしまった。器は大きくなっていくのに、大切にしたいものはどんどん少なくなっていく。
子供の頃は目に見えるものが全部美しくて大切で、小さな箱には仕舞いきれなかった。今はどうだろう、箱の大きさは変わらないのに少しも埋まってはくれない。色彩をなくした箱の中身はもちろん大切なものだったけれど、何度も取り出して眺めたあの頃とは違って見返すこともない。ひどく無味乾燥だった。
それでも思い出しては箱を開ける。開けるたびに彩りに期待している自分がいて、毎回期待は裏切られる。
目に飛び込むのは褪せた色の思い出。まるで自分の中の空洞を見せ付けられているようにも思えた。
また最近、箱を設えた。
クッキーが入っていた箱と、オルゴールがついた小さな小箱のふたつだ。クッキーの箱は表面に文字や模様が浮き出すような加工がしてあり、指で触れるたびにぽくぽくとした手触りがする。
ぱかん、と音がして蓋が開く。
貸したハンカチ、美味しい料理を出す店の名前を書いたメモ、名前も知らない花の押し花、拙い文字が書かれた紙片。中途半端な長さのリボン、どこかの店のコースター、その裏に書かれたメッセージ。それなりの大きさだったというのに、あっという間に半分が埋まってしまった。
その上には手紙の束が乗せられる。差出人別に分けて、色違いの紐で括ってまとめておく。紺、赤、緑、紫と色分けした縒り紐はアンジュが自身で編んだものだ。
また新たに来た手紙を一緒に束ね、箱にしまい込む。
オルゴールのついた小箱は骨董屋で買ったものだ。上品な銀細工に一目ぼれしたけれど、アンジュの倍以上年齢を重ねているらしくなかなか値も張った。それでも価値のあるものだったと確信している。
蓋を開ければ鉄琴の音がひとつ。最初の音につられるようにして、オルゴールはゆっくりとメロディを奏でていく。曲の名前をアンジュは知らないが、とてもよい曲だと思う。
オルゴールの隣には刺繍の入ったハンカチと髪留め。傷軟膏の空き容器……蓋に魚の絵が描いてある……の隣には、古ぼけたボタンがひとつ。その下には手紙が2通。
クッキーの空き箱にはこれでもかと詰め込まれていたのに、オルゴールの方はほんの数点でいっぱいになっている。彼から貰ったものはほんの少しなのだから、無理もない。
ハンカチは手持ちのハンカチを汚したから、とくれたもの。
髪留めは小間物屋をながめていたら買ってもらったもの。
傷軟膏は手荒れに悩まされていたときに貰ったもの。
ボタンは彼のコートから取れてしまったものをそのまま隠して持っていたもの。
最後のひとつに至っては貰い物ですらないが、今の今までばれていないのだからいいだろう。
知らない曲と色味のない小物達が並ぶ。ハンカチのレースは少し黄ばんでいるし、髪留めとボタンの銀色はすっかりくすんでしまった。そして軟膏の空き容器はあの人の髪と同じ色。
笑えてしまうほどに色のない、少ない思い出たち。少ない分だけそれぞれに纏わる思い出は鮮明に思い出すことが出来る。
恥ずかしそうに、困ったように、わずかにはにかんで……全部が全部、ほんの数分前にあったかのように鮮やかに脳裏に蘇る。
「アンジュ」
扉の向こうから呼ばわる声がして、色が途切れた。
「はい、今行きます」
蓋を閉じれば音が途切れる。オルゴールに鍵をかけ、引き出しの奥へと仕舞う。定位置は一番奥、その手前に大きなクッキー箱を置けば完全に隠れてしまって見えることはない。
箱の中身はこれから先、増えることはない。
不器用な人が齎してくれた思い出だけ残して、そこから先に進むことはない。減りはしないけれど、増えもしない。プラスにもならないしマイナスにもならない。
停滞したままの思い出に寂しさはあれど、空虚はなかった。かつて感じた言いようのない空洞はない。眩いほどの色はなくても、アンジュの頭の奥には原色のままの思い出がある、それでいい。
引き出しを閉じても尚、耳の奥にオルゴールの音色が残っているような気がした。