リスタート、今更
薔薇、牡丹、百合、紫陽花。色とりどりの花々が舞う。
花々が向かう先は葡萄茶色の背、すらりと細身の木にも似たシルエット。
ひとり、ふたり、さんにん。華やかな着物を身に纏った女性たちに囲まれているのはよく見知った男性、顔は軍帽の陰になっていてよく見えない。白い細面が薄く見える程度だ。
窓ガラス越しの向こう、会話の内容など聞こえるわけもない。頬を染めて笑顔を見せる少女はイリアと同い年くらいだろうか。胸の奥がわずかにざわついた。
「両手に花だね、リカルドさん」
隣で本を片付けていたコンウェイが言う。おそらくアンジュに向けてなのだろうが、答えることはしなかった。
こちらの世界に招かれてから数か月、耳慣れない言葉や情勢を学んだり、同じく異世界から来た人たちの名前を覚えたり親交を深めたりと忙しく過ごしていた。
その間も再会出来ていない仲間たちの事を案じなかった事はない。リカルドは、キュキュは、そして最年少のエルマーナは無事なのか。
アジトに舞い込む情報にも掛からず、ただ身を案じるばかり。そんな中ですっかり頭から抜け落ちていたことがある。
そう、リカルド・ソルダートという人は男振りがよい人なのだ。
すらりと伸びた上背に男性にしては白い肌と、艶やかな黒髪。鋭い目元には小さな海の色。少し険があるが、すっきりと整った顔立ち。そして心地よい低音に甘味を一匙垂らした声。
元の世界で旅をしていた時だってそうだ、彼に秋波を送る女性は少なくなかった。そして彼がそれを自覚しているらしいことも。
「アンジュさん、オーダーだよ」
「……はい、今行きます」
さすがに二度目の問いかけは無視することはできない。今のアンジュは修道女ではなく、ミルクホールで働く女中なのだ。手伝いの身とはいえ、給金を貰っている以上手を抜くことは許されない。
仕事自体は単純な流れ作業だ。
客からオーダーを受け、カウンターの中で作業するマスターに通す。入れ替わるように出てきた珈琲や料理を指定のテーブルに運ぶ。
またオーダーの声がかかれば同じように受ける。手が空いたら片付けと清掃、さらにその合間に客が話しかけてくれば相槌を打つ。今日も客の入りは多い。忙しくホールを駆け回っているうちに先程の雑念も薄れていく。
三つ目のオーダーを取りに駆け出したとき、またドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませー」
音を耳にすると同時に声をかけるのもすでに身についた習慣。笑顔を作って顔を上げると、先程まで女学生たちに囲まれていた人がそこにいた。ドアに押された風にあわせて、黒髪がひらりと揺れる。
「やあリカルドさん、いらっしゃい」
アンジュより早くコンウェイが一歩前に出る。リカルドは軽く軍帽を浮かせマスターの方へ目礼すると、ああ、とだけ返す。続いてゆるりと視線をさ迷わせた。探されているのだと理解すると同時に、一歩後ずさる自分に気づいた。
どうして逃げるのだろう。そんなこと自分が一番自覚している。広くはない店内ではすぐに見つかってしまう。がつんと軍靴が床を叩く硬い音がする。一歩二歩と詰められ、あっという間に目の前に影が落ちる。
「仕事はどうだ」
挨拶もなく、声はいつものように頭の上から降り注ぐ。そして表情もいつもどおり、気遣う言葉をかけるけれど笑みはない。
「ええ、おかげ様ですっかり慣れました。ご主人もよくしてくださって」
ほんの少しだけ険のある声になった。しかしリカルドはやはり表情も変えず、そうか、と簡単な返事。ただの状況確認なのだろうか。
「盛況なようでなによりだな」
くるりと店内を見まわして一言。客席はほとんど埋まっている。と同時にその分だけの視線がアンジュへと注がれている。ついでに言うならば、窓の外に見える女性たちの視線も。
「……ええ、まあ」
衆目に晒されることには慣れているけれど、今回ばかりは居心地が悪い。嫌悪や恐怖が混じらない、ただ純粋な好奇心の視線たち。
「あなたこそ忙しいんじゃないですか? 素敵なお嬢様方がお待ちですよ」
「ああ、あれか。ただの揉め事相談だ」
「そんなのあなたに逢いたい口実でしょう?」
「だろうな」
否定しないのがまた憎い。やはりこの人は己が他人からどう見られているかしっかりと自覚しているのだ。
「皆さん素敵な方ばかりで、よりどりみどりじゃないですか」
実際彼女たちは華やかだった。身に着けている着物はもちろん、憧れの男性へ向ける視線はちかちか瞬いて女性をより美しく見せる。恋する乙女は美しくなるのは、どこの世界も同じなのだ。
「ところで、ご注文は? それともテイクアウトですか?」
「いや」
短い否定の言葉。続きが来るよりも先に、リカルドの指はアンジュの手を取った。白い手袋は少し硬い感触で、綿のような素材で出来ているらしい。布越しに伝わるわずかな体温と、手の大きさは元居た世界で触れたものと同じだ。
ふ、と頬に熱が寄り添った。皮膚が触れ合うか否かの瀬戸際に、先程窓越しに見た細面が、リカルドの顔がある。
軍帽の鍔の影、青い瞳がこちらを見た、ような気がした。
「ひゃ……!?」
ざわつきの中にきゃあっと声があがった。客の誰かか、それとも窓の外の花たちかアンジュには分からない。角度によってはリカルドがアンジュの頬に口づけをしたようにも見えるだろう。
いや、見えるようにしているのだ。わざと、故意に。
「俺の目が届かない所で妙な虫がついてはかなわん」
耳元で囁かれ、肩が震えた。元居た世界では聞きなれたはずの声が、今は恐ろしく体に染みる。
「リカルドさん、あ、の……っ」
「……ようやく――」
絞りだした声に重なって、なにごとかリカルドが呟いた、ように聞こえた。同時にすぐ近くにあった熱が遠ざかる。見えた顔はなにか苦いものを噛んだように歪んでいるように見えた。
「やあお二人さん、そろそろいいかい?」
二人の間に割って入ったのはコンウェイだった。まだ店内が動揺に満ちる中、彼だけが平然とした顔をしている。
「今日は何時上がりだ?」
「ええと、七時半ですけど……」
ふむ、と少しだけ考えるような仕草。
「そうか、なら迎えに来る」
「え、どうして」
「元とはいえ、依頼人を守るのが俺の仕事だからな」
旅の道中何度も聞いた台詞に、一瞬空気が揺れた。世界はもちろん、互いに身に纏った服も違うのに、ここがナーオスの……あの世界のどこかの街のように感じられた。
呆けるアンジュをよそに、リカルドの方は万が一遅れるようだったら店の前で待っていろ、とだけ残して踵を返す。まだ緊張感の残る店内を数歩で横断し、そのままドアをくぐっていってしまう。
からんからん、とドアベルが高らかに響いた。通り沿いの窓の向こうを葡萄茶の背中は一瞥することもなく、するりと枠外に消えていった。その後を女性たち慌てたように追っていく。
ベルの音から一拍、二拍とたっぷりおいて店内にざわめきが戻ってくる。遠くに引いた波がようやく戻ってきたかのような、ゆっくりとした喧騒の中、客たちもゆっくりと緩慢に動きはじめた。その中、アンジュだけ動けないままでいる。
「私、今日は自転車で来たんだけど……」
間抜けな声で間抜けな言葉が出た。ほとんど呟きのような小ささだったが、すぐ近くにいたコンウェイには聞こえていたようだ。ふふ、と笑う声が聞こえる。
「押して帰ればいいじゃないか」
邪魔なら置いていけばいいし、なんなら二人乗りでもしたらどうだい? とコンウェイ。レンズの奥の瞳はひどく楽しそうだ。
「積もる話もあるだろう? いい機会だよ」
にこりと微笑む。こちらもまたお嬢様方に好かれそうな顔で。
「あのね、私にだって心の準備っていうものがあるの!」
「何を今更」
一層やわくコンウェイが笑む。そう、なにを今更だ。
依頼人を守るのが俺の仕事だ、なんて、なにを今更。もう終わった関係を持ち出すなんてあまりにずるい。
降り積もる雪がいつか春の日差しに溶けて流れるように、そのまま大地に還ってゆるやかに消えていくのを待っていたのに。
まさかこの世界で、今更気づかされてしまうなんて。
「ああ、もう!」
出た声は思いのほか大きく、再び店内の視線がアンジュに向けられる。
耳も頬も首筋まで全部が熱い。誰のせいかどうしてかなんて聞くまでもない、それこそ今更だった。