全部、暑いせいだよって言えたらいいのに
「もーあっ、つい!」
ぬるい空気をイリアの絶叫が破る。それも一瞬で、また部屋の空気はぬるくじっとりと重たいものに戻ってしまった。
「そりゃ夏だもん」
夏も夏、夏の真っ只中。奇しくも今夏は例年にない暑さで、ニュースは連日どこの街で最高気温を更新したと報じていた。
イリアの部屋はクーラーがない。少し古い扇風機が頑張って風を送ってくれるが、ぬるい風を混ぜるだけなので大して効果はなかった。開け放たれた窓からは風は来ない。代わりに蝉の声がやかましく響いている。ミンミン、ジイジイ。
「ねールカぁ。もうアイス食べてよくないー?」
「このページ終わったらね」
課題で分からないところがあるからうちで勉強会しない? とイリアからLINEが入ったのは昨日の夜だった。
すぐにOKのスタンプを送ったのだが、仮にも思いを寄せている女の子の家に上がり込む事になるのでは、という事に気づいたのは風呂で念入りに体を洗った後の事だ。
ひとり大慌てし、ぐるぐる迷い、断ろうかとも考えて気づいたら深夜になってしまった。仕方なく腹をくくりイリアの家を訪れてみれば、弟妹たちが居間で遊んでいた。今も下の階からテレビの音と笑い声が聞こえている。
今日のイリアは伸ばした後ろ髪をひとつに縛っていた。前髪も汗でくっつくのだろう、クリップで横に流している。普段は見えない額、玉のような汗が浮かんでいた。
そのうちの一粒がつるり、滑って頬に伝う。ノースリーブのシャツ、露出した二の腕もうっすら汗ばんでいるのを目にして慌てて目をそらした。
「えー……なにこれ、どうやって解くのよ」
「どれ?」
ここ、とシャープペンシルの先でノートを叩く。書かれた数式を見ると、応用で詰まっている様だった。
「えっと、ここの記号をこっちに持ってくるんだよ」
「持ってくるって、なによそれ」
文句を言いながら、再びノートに向かう。応用問題とはいえ、本当はそこまで難易度の高い問題ではないのだがそれは胸に秘めておいた。
うーん、とイリアが唸る。ペンは止まったり進んだりを繰り返しながら、なんとか問題を解こうと頑張っている。開けた額に汗がまた浮かぶのを見て、ルカもまた自分のノートに目を落とした。
ジイジイ、蝉が鳴く。
ふと、蝉は生息地域によって鳴き声が違うのだと何かの本で読んだことを思い出した。なんとなく話したくなったが、ぐっと留める。イリアの集中を切らしてはいけないし、なにより下らないと一蹴されるのが目に見えていた。
でも、なにか話した方がいいのかもしれない。
思うけれど口には出来ない。持て余した唇を麦茶で湿らせて、またノートに向かう。自分がやっているのは塾の予習だ。きっとイリアは気づいているだろう。
ルカとイリアは学年こそ同じだが進路が違う。ルカは進学コースに進む予定だったが、イリアはこのまま就職コースに入るはずだ。
「うーん……ルカ、これであってる?」
「見せて」
渡されたノートを見る。余程悩んだのだろう、消しゴムの跡が残っていた。数式を読み頭の中で組み立てる。
「うん、あってる。正解だよ」
「やったぁ!」
大ぶりなガッツポーズ。結んだ髪の端っこが動きに合わせて揺れる。
「じゃあアイス食べましょ、アイス! 持ってくるわね!」
教科書も筆記用具もそのままにイリアは部屋を飛び出していった。空になったグラスも忘れずに持っていくあたり、小まめだなとこっそり笑う。
就職コースに進んでも進学出来ないわけではない。
だがイリアは就職するのだろう。共働きの両親を支えたいと常から言っていたし、弟妹もまだ幼い。あたし勉強嫌いだしちょうどいいわ、と言ったのは一年の終わりに進路について聞いた時だ。そういえばスパーダはどうするのだろうか。彼とこういう話をしたことはなかった。
この先何度イリアと、スパーダと一緒に勉強が出来るのだろうか。
夏の終わりに鳴くのはツクツクボウシだという。今夏はまだあの特徴的な声を聴いていないけれど、そのうち鳴くようになるのだろう。季節は残酷に巡る。高校生活はもう折り返し地点まで来ているのだ。
机の上に散らばったノートを畳んでいると階段を上ってくる音がした。ややあって麦茶のグラスを乗せたトレイと、アイスの袋を持ったイリアが部屋に入って来た。
「あれ、僕が買ってきたのじゃないの?」
渡されたのは水色をしたソーダバーだ。透明な袋の向こう側、暑さのせいでうすく汗をかいている。
「あんたが買ってきてくれたのは全部終わってから。あんな高いアイス先に食べちゃったらもったいないじゃない」
コンビニのアイスなのだから高いと言うほどではないのだが、イリア的にはそうなのだろう。自分の持ってきたものがご褒美のように思われている、という事が自然と口元を緩ませた。
渡されたソーダバーを齧る。冷凍庫から出したばかりなのだろう、表面はきんと冷たい。歯に染みるような冷たさのあと、心地よい感覚が喉を通り過ぎる。それだけでまとわりついた熱が消えていくような気がした。
「はー、やっぱり暑い日に食べるアイスは最高ね!」
言い回しがなんとなく親父っぽいな、と思ったが黙っておいた。部屋の熱気でアイスは加速度的に柔らかくなっていく。
「ありゃ」
と、イリアが声を上げた。
持っていたアイスが溶けて、手に垂れたらしい。薄水色の塊は透明なしずくになってつるりとイリアの腕を滑っていく。
拭く物を渡そうと周囲を探るよりも早く、イリアは腕を顔に近づけた。そのまま舌先で垂れたしずくを舐めとる。
イリアの肌は白い。その分舌の赤さがひどく映える。そうしている間にもアイスの一部が崩れて、イリアの手のひらと腕を汚していく。
「ああもう、もったいない」
わずかに渋るような声。どんどん垂れてくる甘い水を赤い舌がすくい、舐めとる。わずかに伏せた目。腕と額には汗が浮かび、つるんと首筋を伝って鎖骨に溜まった。そのうち湛えきれなくなったのか、胸元に落ちる。ルカの位置からはわずかに胸の谷間が見える。うっすら陰ったそこに、汗が流れていくのから目が離せない。
ごくり、と喉が鳴った。
「っ、うわ!」
瞬間、ルカの手にも冷たい感覚が走った。イリアの方ばかり見ている間に自分のアイスも溶けているのに気づかなかった。慌ててハンカチで拭き、生き残っていたアイスを頬張る。
「なにしてんのよ、もう」
物言いはきついが、声は楽しそうだ。
「ほらこれで拭いて。べたべたするでしょ」
とウェットティッシュを差し出す。テーブルの向かいから乗り出すようにしているため、シャツの胸元がたわんで、その奥が見えた。
ピンクのレースらしき膨らみを認めた瞬間、体の温度が一気に上昇する。
「い、イリアっ、あの、服」
慌てて目をそらし、ティッシュだけを受け取る。耳と顔がひどく熱い。視界のはずれでイリアが首を傾げる気配だけが伝わってくる。
「は?服がどうしたのよ」
ややあって、ルカの言わんとしていることに気づいたのだろう。あっ、と小さな悲鳴が聞こえたような気がした。
「……なに見てんのよ、おたんこルカ!」
続いて家中に響き渡るような絶叫。声に驚いたのか、窓の外の蝉がジイっと鳴いて逃げて行った。