ナンパされるまで待ってて
「兄ちゃん明日暇やろ。ウチとデートせぇへん?」
「決めつけんなよ。まあ暇だけどさ」
シンプルなTシャツにショートパンツ、そして夏の象徴のような麦わら帽子。一見して少年のような見た目のエルマーナの手には何かの紙切れが二枚あった。
「よっしゃ決まりぃ。水着忘れたらあかんで」
時間と場所を指定され、言われた通りに向かう。
言われるままに後をついていくと、大きな看板が顔を出した。イルカとハイビスカスのような花、派手なフォントで書かれたそれに見覚えがあった。昨年リニューアルオープンした総合プール施設だ。
「すっごいなぁ。めっちゃ金かかってるやん」
「お前来たことねぇの?」
「あるわけないやん。たまーにテレビで見るくらいやで」
エルマーナは児童養護施設の育ちだ。そうなるとこういった場所に来る機会もそうないだろう。ならばあのチケットはどうしたのだと聞くと、貰ったと笑った。
「八百屋のおばちゃんおるやん? あの人が当てたんやけど、歳やし行かれへんからエルちゃん行っといでーって」
「いや八百屋のおばちゃん知らねぇし」
経緯はどうあれ、プールに入れるのは嬉しかった。こういう機会でもなければ来ることはまずない。
チケットカウンターに並ぶ人を横目に受付に向かう。チケットと清算用のバンドを引き換え、中に入ると、プール独特の消毒液のような臭いと、人の放つ熱気がぶわりと身にまとわりついた。
「めっちゃ人おるなぁ」
エルマーナの言う通り、プールはかなりの人手だった。さすがに芋洗いというほどに混んではいないが、スライダーなどは順番待ちができている。人気の流れるプールに至っては水が流れているのか人が流されているのか分からない。
とはいえ、見慣れない光景にテンションが上がってきたのも事実だ。大きく開けた開放的な空間に、海やら山やらをそのまま持ってきて合体させたような施設。おまけにカラフルな水着をきた女性たちも見放題となれば、スパーダのテンションは自ずと上がる。
「兄ちゃん鼻の下伸びてんで」
「うるせー」
なにはともあれ、せっかくの機会を満喫しない手はない。とにかくアトラクションを片っ端から回ることにした。
ウォータースライダーは体力のある最初に。続いて流れるプールに入ったが、あっという間に三周してしまった。
大きな波が立つプールは一回。浮き輪に掴まって激流を下るプールにはスパーダがハマってしまい、二周した。
二人してきゃあきゃあワイワイとはしゃぎながら園内を回っていたが、周りの客も似たようなものだった。みな普段とは違うテンションで、プール縁を歩くだけて浮かれ足だ。
ひとしきり楽しんだ後は、飲食コーナーで空腹を満たす。誘われた手前、それなりに持ち合わせてきたつもりだったが、エルマーナも同じように持ってきていたらしい。
「プール行く言うたら、お小遣いもろてん」
と言った。誰かは明確にしなかったが、小遣いを渡してきそうな大人には、三人ほど心当たりがいた。
昼を少し過ぎた時間のせいか、休憩コーナーにはちらほらと空きスペースがあった。そのうちパラソルの下を陣取り、銘々に買ってきたものを広げて食べる。
「スパーダ兄ちゃん、一個ちょうだい」
とエルマーナがスパーダのタコ焼きを狙う。
「やだよ。お前そう言って半分持ってくだろ」
こういう場で食べる食べ物はどうして美味いのだろう。べたついて具の少ない焼きそばも、タコの入ってないタコ焼きも、ちょっと薄目のコーラも全部が理由もなく美味い。
この熱気のせいか、もしくは特別な環境のせいか。どちらにせよ美味いものは美味い。
隣に座るエルマーナも、入ってからずっと楽しそうだ。普段からよく笑うが、今日は一段と楽しそうに笑っている。元より日焼けしたような肌、丸い頬にソースがついているのを指で取ってやる。
「おいエル、ほっぺたについてんぞー」
むに、と柔らかい感触。餅みたいだ、とぼんやり思う。
「そういう兄ちゃんも、口にケチャップついてんで」
仕返しとばかりに小さな手が口元をぬぐう。パラソルの下、うっすらと影になった空間、普段より露出の多い水着姿。やはりどことなく非日常感があった。
ふと、どこからか声がした。視界を巡らすと二人組の女性が男たちにに絡まれていた。派手な水着が多いプール施設の中、割と地味な水着を着た女性に対し、男側はいかにもと言った風貌だ。だからこそ、なのだろう。じわりと腹の奥が嫌な感じに熱を持つ。
「エル、ちょっと待ってろ」
食べかけのタコ焼きをエルマーナに渡し、パラソルの外に出る。途端ジリジリと熱い日差しが肌を焼いた。男性の背中に向けて歩を進め、肩を掴んだ。
「おいお前ら、なにやってんだ」
唐突に割って入って来たスパーダに対し、男たちは胡乱な目を向ける。影になった向こう側、女性たちが助けを求めるような顔をした。
「なんだお前、この子らの知り合いか?」
「どう見ても知り合いじゃねぇお前らも声かけてんだろ。知り合いじゃねぇオレが助けたら駄目な理由があんのかよ」
男たちは明らかに苛立った顔になる。が、スパーダは意に介さない。それよりも楽しかった時間に水を差されたのが不満だった。相手がスパーダをねめつける。普段数倍強面の男を見ているせいか、まったく迫力はなかった。
そのうち遠くから警備員らしき人間が近づいてくるのが見えた。男たちもそれに気づいたのだろう、慌てて逃げ出す。あれだけ凄んでいたのにも関わらず、散りざまはひどく情けなかった。
「あ、あの、ありがとうございました……」
解放された安堵感なのか、女性の声はわずかに震えていた。まだ男性に対する恐怖心が残っているのだろう、何事か追及するより立ち去った方がいいだろう。そう思って元居たパラソルの方へ踵を返した瞬間だった。
「妹さんと一緒にいたのに、邪魔してごめんなさい」
と、女性の片方が言った。もう片方もありがとうございましたと頭を下げる。誰の事だ?と首を捻って、エルマーナの事か、と合点がいく。
「兄ちゃんお疲れさん。カッコよかったでー」
再びパラソルの下に戻る。渡したタコ焼きは数を減らすことなく、そのまま残っていた。どかりと隣に腰を下ろす。
「あの姉ちゃんたち、お前の事妹だってよ」
「ウチが?えー、全然似てへんやん」
それはそうだ。エルマーナとは付き合いこそあるが、血の繋がりはない。髪や肌以外にも、顔つきが全く違う。
ざざん、と波の音。装置で作られた偽物の波音だ。
「ウチがナンパされる歳になっても一緒に来てくれる?」
「あ?」
不意の問いに変な声が出た。視線を落とすと膝を抱える格好で、エルマーナがこちらを見ている。
少し角ばった膝小僧、肉の少ない手足。フリルのついた水着のおかげで、胸周りは少し丸く見えた。
エルマーナが今のスパーダと同じ年になるまであと四年。
このどこからどう見ても凹凸のない体が、あの女性たちのように豊かなものに成長する予感は……まるでなかった。
「ええやん。な、約束やで」
ただ、何歳になっても笑い顔は変わらないのだろうという予感はあった。十七歳になろうが、三十四歳になろうが、それこそチケットをくれた八百屋のおばちゃんぐらいの年になろうが。彼女は自分を兄ちゃんと呼び、ついてくるのだろう。
「ま、それぐらいはいいけどよ」
パッと白い歯を見せて笑う。
「そんでまた、焼きそばおごってぇな」
「どっちかっつーとそっち狙いだろ!」
渡してあったタコ焼きを奪い返す。なんやねんケチぃ、と拗ねた声がしたがどこか楽しそうな色をしていた。