アンジュ・セレーナは聖女である
アンジュ・セレーナは聖女である。
清く澄んだ心を持ち、優しく慈愛に満ちた振る舞いで持って人々を教え諭す。そして導く。
迷うものあればあなたの心のままに生きなさいと言い、罪を告白するものがあれば神は罪をお許しになるでしょうと言う。
信者曰く。ありがとうございます聖女様! ああ、あなたが居てくれてよかった!
大修道士曰く。彼女は天が使わした御使いに他ならない。まさに修道女の鑑と言えるだろう。
世間曰く。なんでも『アンジュ』とは異国の言葉で天使を指すという。ああまさに神の御使いなのだ!
そんな美辞麗句を一身に浴び、アンジュは聖女としてこの数年を生きてきた。元々巡回牧師の家系に生まれたのも一因だが、十二歳で前世の記憶と天術に目覚めたのがなによりも大きい。
体を癒すのは医者でも出来る。心を癒すのは娼婦でも出来る。だが、どちらも完治まではさせられない。
アンジュだけはその両方が出来た。生まれ持った言葉の上手さと前世から少しだけ引き継いだ知識と含蓄、それから周囲から頭ひとつ抜きん出た美貌。小鳥の囀りにも似た声と珍しい青い髪も彼女の存在を特別にさせた。
アンジュの言葉に救われた男がいた。
アンジュの美しさに見惚れた女がいた。
聖女の力で病気が治癒した老人がいた。
アンジュの元で天寿を全うした老婆がいた。
聖女の姿を写した絵で自慰を行う男がいた。
アンジュの私物と偽って信徒に売りつける女がいた。
聖女の正体は売春婦だと吹聴する老人がいた。
聖女のことは信じるなと口角泡を飛ばす老婆がいた。
聖女は悪魔だという人たちがいた。救われた男も見惚れていた女も元気になった老人も老婆の家族も自慰をした男もまがい物を売りつけた女も淫売だと噂した老人も信じてはいけないと叫んだ老婆も全員あの町に住まう老若男女のほとんどが聖女は人ではないと罵り石を投げた。
聖女は大嘘吐き、聖女は偽善者、聖女を締め上げろ、聖女を暴け、聖女を吊るせ、聖女は聖女を殺せ!
そこではたと気づいた。誰も彼もがアンジュを聖女としか呼んでいないことに。
ほんの少し、ほんの少しだけ反論をするならば。
「わたしは話好きなだけなんですよ。あと、人のお世話を焼くのも好きなだけで」
「大体そんなに大したことは言ってないんですよ? それはあなたの心次第ですよ、とか丸投げしてるようなものですし」
「お喋りが好きな女の子なんてよくいるでしょ? あと、口が達者な子も」
「あと名前に意味があるなんて初めて知りました。偶然なのに大げさですよね」
「ほんの少し話が好きで、口が達者で、天術が使える修道女ってだけなのに。それだけだったのになぁ」
「そう、だからね、本当はわたしは」
「セレーナ」
歩が止まる。青々とした草を踏み、さくりと小気味良い音がした。顔を上げれば隣に立つ男の顔が見える。日向側を歩いていたせいか、額には薄く汗が浮かんでいるようだった。
「どうする」
ナーオスの街はもうすぐそこまで迫っている。どれだけ歩を緩めたとしても、一時間もあれば足を踏み入れることになるだろう。
「着いて来いというなら着いていくし、待っていろというなら待つ」
提案の中に『行かない』という選択肢は存在しない。最初から逃げるつもりなら落成式への招待なんて蹴ってしまえばよかったのだ。
「街の者を皆殺しにしろ……というのは少々厳しいが、十人くらいなら始末もしよう」
その場合は二日ほど待ってくれ、と付け加える。実際彼ならやりかねないし、やり遂げてみせるのだろう。彼女が雇った傭兵はそういう人だ。
「……それって、自分で決めろってことですよね」
「そうだ。君が散々やってきた丸投げだな」
「ひどいひと!」
アンジュの元に道を請うて来た信徒は満足して帰ったというのに。実際、本人の中ではとっくに道行きは決まっていて、その背を押してもらいたかっただけなのだ。自分で決めるのは怖いから、大事な部分だけは他人任せにする。
「……今、聖女はどう思われているんでしょう」
転生者への偏見がなくなったとは言え、万事治まったわけではない。聖女に良からぬ印象を持っている者、忸怩たる思いを抱いている者が綺麗さっぱり改心するなんて奇跡は起きるはずがない。
「いつから君の名前は『聖女』になった?」
すとんと投げられた言葉に、ぱちりと瞬きをする。リカルドは至極真面目な表情のまま続ける。
「アンジュ・セレーナ。綺麗な名だというのに、捨ててしまうのか」
美しい名前だと彼は言う。そんな風に思われていたなんて、初めて知った。いや、言葉の端々に滲んでいたのかもしれない。あるいは街中で、あるいは戦闘中に、何かにつけて呼ばれるその瞬間に。
アンジュの事をアンジュとして知っている彼だから、彼ら彼女らだったから。その言葉は温く心の中で解けほどけてゆく。
「……わたし、行きます。ついて来て下さいますか」
「無論だ」
答えのように差し出された手を取る。並んで歩き出せば、大きさの違う二つの影が草原に現れた。数分歩いたところで、ねえリカルドさんと呼びかけた。
「もしわたしに心無い言葉を投げかける人がいても、止めないでくださいね」
「何故だ」
露骨に眉を寄せる。いかにも不満だという顔だ。
「その時はわたし、言い返そうと思って」
眉を寄せたまま、不可解そうな目でアンジュを見やる。リカルドは表情の変化が少ないと言われていたけれど十分豊かではないかとアンジュは思う。
「ええ、聖女って誰のことですか? わたしの名前はアンジュですが。って」
「……はは!」
あっけに取られた顔から一転、破顔する。皮肉めいた笑みではなくて、本当に楽しそうな笑顔だ。
アンジュ・セレーナは聖女である。これからも聖女のように振舞うだろう。今更性分は変えられない。誉れある汚名は未来永劫消えることはない。
「そりゃ聖堂を壊したのはわたしですけど、だからって言われっぱなしは性に合いませんもの」
「ああ、いいな。その方が君らしくていい」
アンジュ・セレーナは聖女である。
そして、ただのアンジュ・セレーナでもあるのだ。