公然の秘密
「意味が分からん」
表情が、声が、不愉快だと告げている。整った男の横顔、その中でも眉間は一等険しく歪んでいた。
男の視線を追うようにアンジュも視線をやる。
閉塞された空間には二つの扉しかない。先ほど二人が入って来た扉の向かい、すなわち出口に相当するだろう扉の上には大きな看板が掲げられていた。
『お互いの恋を諦めないと出られない部屋』
それ以外に説明も但し書きもない、それがこの部屋の意味すべてだというのだろう。
扉以外になにもない部屋に閉じ込められてから数十分、こうして看板を眺めている。そのうち文字が変わったりしないだろうかと待ってみたが、ぴくりとも動きはしない。
「これは昔の恋でもいいんでしょうか」
「さあ」
明らかに不満げな声。ちらと横目で伺えば険しい顔で看板を見据えていた。
「リカルドさん、恋人はいらっしゃったんですか」
「……二十代の頭には居た」
「その方のことは?」
少しの間。リカルドは口元に手をやり、少しだけ考え込むような仕草を見せた。アンジュは口元が再び現れるのをじっと待つ。
「こっぴどく振られた。まあ俺も若かったし、今更未練はない」
きっぱりと言い切る。いつか聞いた恋人のことだろう、たしかヒモがどうとかいう話だった。リカルドとしてもあまり格好のいい話ではないらしく、アンジュの方へ水を向けるような視線を寄越してくる。
「わたしもお付き合いしていた人はいました」
ほう、と声が返る。
初めて恋人と呼べる存在が出来たのは、今のルカくらいの年齢だった。たしか恋文をもらって、それがきっかけだ。同学年の生徒で、あまり目立つ方ではなかったように記憶している。
流れるようにして始まった恋愛……と呼べるのかも今となっては怪しい……は流れるようにして終わった。
「だからわたしも引きずっているとかではありません」
アンジュの説明に耳を傾けていたリカルドは、すべてを聞き終えるとなるほど、とだけ返す。
再び扉を見る。見るからに硬そうな木で出来た二対は物音ひとつ立てる気配はない。
「ダメですね」
「ダメだな」
そもそも扉にはドアノブも鍵穴もない、どこからどのような原理で施錠しているのかまったく謎だ。誰か操作している者がいるのだろうか。
「……じゃあ、なにが影響しているんでしょう」
踏み込まない。
「なんだろうな」
踏み込めない。
どの恋がいつの恋が、誰の思いが、楔であり鍵であるのか。いつものように衒いもなく聞いてしまえばいいのに、どちらも口にはしなかった。
今日の夕飯はなににしましょうか、そうだな肉が食いたい、ああいいですね。そんな調子で聞いてしまえばすぐ済むのに。
早くここから出なければ。部屋の外ではルカたちが待っている、彼らが弱いとは思わないけれど何が起きるか分からない。この部屋がルカたちと分断することが目的なら、あるいはルカたちも同じように閉じ込められていたら。
「ねえ、リカルドさん」
少しの沈黙。破ったのはアンジュからだった。隣に立つ人は視線だけを向けてよこす。
「愛しています、って言うから断ってください」
細い眉が少しだけ揺れるのをアンジュは見逃さなかった。
「そのかわり、わたしも断ります」
再び眉が揺れる。だが、意図すると事は伝わったのだろう。
「諦めたらいいんですもの、ね?」
恋を諦める時は、大体が相手に拒絶された時だ。互いに諦め互いに拒絶すれば、試練はクリアできるのではないだろうか。
「……ああ、そうだな。それがいい」
互いに向き合う格好になる。ついと顎を上げて、視線を合わせた。きゅっと横一文字に結ばれた唇、おそらくアンジュも同じような表情をしているのだろう。
「リカルドさん、わたしあなたの事が好きです。でも、ごめんなさい」
特段意識したわけではないが、少し芝居がった言い方になった。ほんの少し首筋が熱を持つ。
「俺は君を愛している。だが、答えることはできない」
アンジュの告白から一呼吸おいてリカルドが口を開く。低い声がきっぱりと愛と拒絶の言葉を投げかけてきた。互いの台詞が終わって扉は開くどころか、物音ひとつ立てる気配もなかった。
念のためにと触ってもみるが、手応えはない。扉はあたたかな木目に反して、手触りは固くて冷たいだけだ。
「これでも、だめかぁ」
「――アンジュ」
名前を呼ばれた。二十年間呼ばれ慣れた名だけれど、この声に呼ばれるのは一体どれだけ振りだろうか。
振り向くより早く腕を引かれる。続いて肩を引き寄せれられ、抱きしめられる。自分の身に起きていることを理解するより早く唇が触れる。
薄皮一枚を隔てた熱はじわとその場で膨れ上がり、弾ける。体の奥、あるいは末端がぱちぱちと弾けて消えてを繰り返すような奇妙な感覚。
頬に添えられた手は革越しでも、ほんの少し熱が分かる。ほんの少しだけ逡巡し、応えるようにアンジュも手を重ねた。
皮膚と皮膚を触れさせただけのおぼろな口づけを、どれだけ続けていただろう。ふ、と熱が遠ざかる。
「君を愛していた、ずっと」
至近距離で声がする。低く耳にやさしい声。
「……ええ、ええ。わたしもずっとあなたが好きでした」
かち合う青と紫。こんなにまっすぐ互いを見つめあうなんて、今まであっただろうか。契約を交わしたあの日も、相談事をする時も、言い争いをする時だってこんなに見つめあう事はなかった。ましてやこんな至近距離で、恋人同士の睦愛のような距離で。
「あなたの事が大好きでした、リカルドさん」
がたん、と重たいものが外れる音がした。
鍵らしきものが地面に落ちた音がからからと耳に痛い。けれどそれも数秒と待たず収まる。
視線は交わせたまま、リカルドが口元を緩めた。それにつられてアンジュも笑う。もしかするとアンジュが先に笑っていたのかもしれないが、些細なことだ。どちらが先でどちらが後かなんて。
からから、から、と音は小さくなる。そして最後にはなにも聞こえなくなって、終わった。
お題。診断メーカーにて
リカルドさんとアンジュさんは『お互いの恋を諦めないと出られない部屋』に入ってしまいました。