三日間だけの恋人

「――以上が現在の状況です。なにか分からない点はありますか?」
窓の外はもうすっかり暗い。今日は月夜だというけれど、この部屋からは伺うことができない。
「いいや、十分だ」
部屋の真ん中に置かれたベッドに、二人並んで腰を下ろしていた。アンジュから人一人分の間を開けて座るリカルドは、先んじて渡された書類から目を離さないまま答える。
手にした万年筆をくるりと回し、何事か書きつけた。続いてサイドテーブルに置いた書類に手を伸ばす。折りたたんだ跡のある用紙は、見覚えのない色をしている。
「それは?」
「軍籍らしい連中から渡された。なんだったか眼鏡で髪の長い……」
現在アジト内にいる人物でその特徴にあう人物と言えば、おそらくジェイドだろう。名前を告げると、ああ多分それだ、とリカルドは頷いた。
「帝国軍と救世軍に関する情報だと言ってな」
リカルドとキュキュがアジトに合流するという報は、帰投の数日前に伝えてあった。その際に二人が傭兵と軍人であるという事も伝わっていたのだろう。
「同じ軍籍なら今後力を借りることもあるだろう、だと。どこまで本心だか」
わずかに勘ぐるような表情を見せたが、その気持ちはアンジュも分かる。曲者も多いアジト中でも彼ほど底が知れない人物はそういない。
「もうアジトの皆さんとは話をされました?」
「大体十人くらいとは顔を合わせた。何分人数が多いからな」
と言うリカルドの視線は、再び鏡映点の名が書きつけられたリストへ向けられる。
彼の言う通りアジトはとにかく人が多い。それぞれ異なる世界から来たという人は身分はもちろん、種族が異なる者も多い。
見るからに人外であろう者もいれば、人間の形をしているが精霊であったり、神に近い存在であったり、幼い姿をしているが100歳を優に超えていたり、羽が生えて宙を漂っている者――それも大小――までいる。前世の記憶を持つ転生者も珍しい存在だという自覚はあったが、それと同様か上回る者がこの世界には集っている。
そもそも組織の要であるイクスとミリーナ自体が復元された存在だというのだから、それを中心に集まった者たちも一癖も二癖もあるのは当然の帰結とも言えるだろう。
「私も顔と名前が一致するまでは結構時間が掛かりましたから」
「まあ気長にやっていくしかあるまい」
「少しの間ゆっくりできますし、その間に覚えれば大丈夫ですよ」
アジトに新しく迎え入れられた鏡映点は、三日ほど個室の部屋を与えられる。
それは合流したばかりで気後れするだろうとか、情勢について学ぶ期間だとか、今後の部屋割の準備のためだとか、再会した仲間たちと親睦を深めるためだとか、様々な理由がある。
その中には『恋仲だった鏡映点への配慮』も含まれていた。
鏡映点の面子の中には、明らかに恋人に近い関係の者もいる。大概は少年少女の甘酸っぱい恋……ルカとイリアのような……だが、中には明らかに数歩進んだ関係の者もいる。個室を与えられる数日の間だけでも逢瀬を楽しんでほしい、という配慮なのだろう。
アンジュが合流するより前からあった制度だと聞いたが、おそらくミリーナあたりの提案だろう。
恐らくリカルドもそういう相手がいる人物なのだと思われているのだと推測できた。そうでなければアジトの中でも離れに当たる部屋を割り振られたりしない。
万年筆のキャップを閉め、書類を片付けるリカルドの手はなにもつけていない。アンジュが訪れるより前に風呂に入ったのだろう、いつもの物々しい装備ではなく黒いシャツを身に着けている。髪はいつもどおり後ろでまとめられているが、縛りがゆるいのだろう少しだけほつれているように見えた。
ちら、とリカルドが壁へ目をやる。上目遣いで一瞬だけ、次に出てくる言葉はなんとなく予想がついた。
「そろそろ戻ったほうがいいんじゃないか」
ああやはり、と思う。彼もまた、この部屋を当てがわれた理由に気づいている。
「そうですね、もう遅いですし」
しかしリカルドのいう事ももっともだった。アンジュが部屋を訪れてから二時間近くは経っている。日付を跨ぐほどではないけれど、もう月も天上にかかる頃合いだ。
「気遣ってくれるのは有難いがな」
「あら、私はリカルドさんがひとりで寂しがってないか心配だっただけですよ?」
折角再会したルカたちとも今は別部屋だ。あの街では離れていたこともあり、積もる話もあるだろう。からかうようなアンジュに、リカルドは唇の端だけをゆがめて笑う。
「ただ心配なだけなら、風呂を使う前に来てもよかっただろう」
ぎく、と音が鳴った。
心臓がそんな音を立てるわけはない。鳴ったのはベッドだ。アンジュが動揺したのに合わせて律儀にも鳴いてくれた。
顔には出さないようにしたつもりだが、恐らくそれも見透かされているのだろう。
「……どうして分かるんですか」
「髪の先がまだ濡れている。あと、口紅もだいぶ薄い」
またぎくり、と鳴った。今度はベッドのスプリングではなく、アンジュの喉だ。小さく息を飲んだ音は、リカルドに聞こえているのだろうか。
「よく見ているんですね」
彼の言う通り、ここに来る前に風呂を使った。さすがに寝間着で男性の部屋を訪れるのは失礼だからと着替えて、髪も整えたのに、すっかりばれている。
そこにほんの少し、下心と覚悟が混じっていることも、恐らくリカルドには見抜かれているのだろう。
「依頼人の事だからな」
相変わらず口元は楽し気にゆがめられている。依頼人、と発音する唇は薄くて少し乾いているようだった。
「もう依頼人じゃないですよ」
「まあ確かに」
笑みの形は変わらない。片目を少し眇めるような笑い方は、彼の仕草のひとつとして記憶している。
ただ今のそれは、少し寂しいような、痛いような色を含んでいるようにアンジュには見えた。
リカルドたちと合流してすぐ、記憶の擦り合わせが行われた。コンウェイとキュキュを除けば、元居た世界での最後の記憶は全員レグヌムで一致していた。おそらくエルマーナがこちらに呼ばれていれば同じ記憶を持っているだろう。
レグヌム、すなわち旅の終わりの場所。いまここにいるリカルドは、アンジュとの契約を終えた後なのだ。
契約が終わった今この瞬間、両名の間にあるのは『同じ世界から来た人間』という事実しかない。
「依頼人じゃない、ならなんだと思いますか」
互いの間を結んでいた名目はもう存在しない。ならば、今の自分たちはどういう関係にあたるのだろう。
ふむ、とわずかにリカルドは首をかしげる。
「なら友人から始めてみるか?」
「あら。私、リカルドさんとはとっくにお友達だと思ってました」
「そうか。それは失礼した」
さらりとした返答。目線はするりと逸らされて、床面へ落ちた。そして続いて落ちたのは沈黙。
人一人分の間の向こう、室内灯に照らされた横顔が見える。細面で色白の輪郭に、一筋の黒髪が落ちている。ああやはりゆるく髪を縛っているのだ。
「……この部屋から出るまで、恋人になってみるのはどうだ」
こいびと、とリカルドは言った。薄い唇から発せられた声は、ひどく場違いな音に聞こえる。
冗談ではないことは、顔を見れば分かる。愛の告白にしてはあまりにも思いつめた表情だった。
この部屋を出るまでの間、たった三日。その間だけ恋人になってほしいと彼は言う。大人の男性が求めるにはあまりにも切実で、いたいけな願いに思えた。
「三日間だけでいいんですか」
今度はリカルドが瞠目する番だった。見慣れた青い色が丸くなる。
「この世界から立ち去るまでの間、にしませんか」
驚くほどすらすらと言葉が出た。告白の答えとしては少々色気がないけれど、本心だった。
「……いつになるか分からんぞ」
またベッドが鳴いた。今度はリカルドが体重を移動させた。
「そうですね、明日か一週間後か、それとも死ぬまでか」
この世界で死んだ鏡映点はどうなるのかをアンジュは知らない。優秀な研究班がいるけれど、もう解明が済んでいるのだろうか。
「でも、その時が来るまで、あなたの恋人でいさせてくれますか」
そうっと手を伸ばしたのは、アンジュが先だった。シーツの上を滑りリカルドのそばまで近づき、止まる。湯を使ってから随分経ったのに、指先が薄く朱色に染まっているのは緊張のせいだろう。
リカルドは、なにも言わなかった。ただアンジュの顔と、手元を見て、小さく頭を振った。ほつれた髪がぱらりと揺れて、飾りがなくなった耳たぶが見える。
「女性にばかり言わせるのは恰好がつかんな」
すうと大きく息を吸う。赤い指先に角ばった指が重なる。色は白いのに、同じくらいに熱かった。
「愛している、アンジュ」
「私も。愛しています、リカルドさん」
手に手を取って、目と目を見て。紛れもない愛の告白なのに、重なった手は罪を告白する罪人のようにも見えた。だとしたらこの部屋は懺悔室なのかもしれない。
至近距離で見たリカルドの顔は、なにかを耐えているように歪んでいた。眉間の皺は深く濃く、泣いてしまうのかと思うほどだ。どうか泣かないでほしいと、頬に唇を落とす。それに気づいたのか、今度は彼の方から口づけをくれた。ふと視線が合うと、どちらともなく笑った。片方は泣きそうに、もう片方は嬉しそうに。
「ずっと好きでした……本当ですよ?」
「ああ、分かっている。俺も同じだ」
「ほんとう? 嬉しい」
指が絡む、笑う息が混ざる。
一人分の間を埋めるのに随分と遠回りをしたように思える。
一瞬か一生か、有限か無限か、刹那か永遠か。この生き地獄はいつまで続くのか、誰にも分からない。アンジュもリカルドも、誰も彼も知らない。
それでもひたすらに愛を繰り返す。箱の中に留まるまでの間から、箱庭に留まるまでの間。箱庭の中から出るまでの間、あるいは箱庭の中で死ぬまでの間、ずっとずっと。

初出:20210517
close
横書き 縦書き