長くて、短くて
「奥さん、ですって」
ねえリカルドさん、聞きました? と呼びかけた。名前を呼ばれた男は少しだけアンジュの方を見ると、またすぐに前方に視線を戻す。抱えた紙袋が乾いた音を立てた。
「わたしたち夫婦に見えるんでしょうか」
はじめて来る街に知った人はいない。そんな街で並んで買い物をしていた。ルカたちは別の通りを見てくるといって三十分ほど前に別れたばかりだ。
アンジュとリカルドが一緒に行動する、旅を続ける中ですっかり定番化した行動のひとつだった。
今日はアンジュは髪につける香油を買いに、リカルドはナイフを研ぎに出す予定だ。ついでに買出しも済ませてしまおうと並んだ店をひやかしていた時に、ふいに声がかかった。
『奥さん、ちょっと奥さん』
ちょうど骨董品屋の軒先に出されている古本を見ていたときだった。最初は他の誰かに向けているのだと思ったが、そうではないと気づいたのは他人の気配が近づいたからだ。
顔をあげると、小太りの男性がアンジュに向けてにっと笑みを見せる。そこの本は状態が悪いから探すなら中のほうがいいと説明されて初めて、先程の声がこの人のものだと言う事に気づいた。
『中にはアクセサリーもあるんですよ。旦那さん、奥さんにどうです』
奥さん、というのはもしや自分のことだろうか。ならば、旦那さんというのは誰だろうか。そこまで考えてはじめて、自分の後ろにいる人に気づいた。
大丈夫です間に合っています見ていただけです、と口早に告げてから店の前を離れて今に至る。
「少なくとも兄妹には見えないだろうな」
それは見れば分かる。年齢はさておき顔立ちがまるきり違う。
アンジュは目も輪郭も丸みを帯びているけれど、リカルドはその反対だ。目も輪郭も全部が鋭利に出来ている。この二人を並べて兄妹だと判断する人はまずいないだろう。
「でも、だからって夫婦だなんて」
「そんなに所帯じみて見えるのか、と?」
語尾にわずかに笑みが乗る。顔は見えないけれど、きっといつものように唇を歪めて笑っているのだろう。
「……そうですね、手も繋いだことがないのに夫婦に見えるなんて不思議ですね」
兄妹も恋人もすっ飛ばして、夫婦、だなんて。
ぐ、と隣の人が唸る。さすがに動揺したのだろう、先程はかすかに鳴くだけだった袋が大きな音を立てた中の香油や雑貨たちが大きく揺れたらしい。
ガルポスを過ぎて、グリゴリの里を経て、テノスを超えてなお、二人の関係は形を保ったままだ。もう互いの腹なんて洗いざらい暴きあった後だというのに、一番大事なことだけはまだ隠している。
「もうそろそろいいと思うんです」
「なにがだ」
「手くらい、繋いだって」
すい、と右手を差し出す。アンジュの右側を歩くリカルドの左手は、なにも持っていない。自分から手を取ることも出来たけれど、それはしなかった。礼儀が半分、恐怖が半分。
リカルドは眉を寄せ、アンジュの手を見る。それなりの付き合いを経た今だから分かる、ひどく怖く見えるこの顔は困ったときの顔だ。どうしたものか、どう返したものかと考えあぐねている。
「……ちょっと待て」
言われたとおりに待った。がさ、と紙袋が鳴いて大きな手がアンジュの指先に触れた。深緑の革手袋を外した手は、あまり血の気が感じられないように見える。
「繋ぐならこの方がいいだろう」
五指の爪はどれも短く切り揃えられており、ああリカルドは爪を短くする人なのだなと、と思ううちにゆっくりと手を握られた。握り返した手は、ほんの少し汗ばんでいた。きっとアンジュの手もそうなのだろう。
「リカルドさんの手、はじめて触ります」
「俺だってそうだ」
ゆっくりと握り返してはじめてあたたかさと、手のひらの硬さに気づく。硬く細い指と、やわく丸い指が絡む。まるで似ていないけれど、傷の多さは良く似ていた。当たり前の相違と妙な類似が嬉しい。
「次にご夫婦ですか? って聞かれたら、なんて答えましょうか」
「好きに答えればいいだろう」
繋いだ手が少し熱い。誰かと手を繋いで街を歩くなんて、何年もしていないせいで歩幅が上手く合わない。以前交際していた男性と歩いた時はどうだったろうと思い出そうとしたが、少しも浮かばない。繋いだ手がじわりじわり熱を持っていく。
「じゃあ、そうですって言いますね」
「ああ」
兄妹も恋人もすっ飛ばして、夫婦、だなんて。そんな形もあり得るのかも知れない。そもそも始まりが歪なだから、過程が歪だっておかしいことはないのだ。
「それから、リカルドさんのことも旦那様ですって言いますね」
「好きにしてくれ」
捨て鉢な言葉は、ほんの少し笑みが混ざっていた。それが嬉しくて、体を寄せるとさすがにやめろ、と言われてしまったがそれすらも嬉しい。
「リカルドさんも、わたしのこと奥さんって言ってくれます?」
見上げた彼の頬は薄くて、白い。その一部がさっと赤く染まる。あまりのいとおしさにアンジュはリカルドの腕に抱きつかずにいられなかった。