さよならアンドロメダ

アンジュが失踪した。時を置かずしてリカルドも姿を消した。
居を構えていたテノスのグランディオーザ邸から、寝床にしていたというガラムのアパートメントから、それぞれすっかり消えてしまった。
幾ばくかのお金とほんの少しだけの荷物を持っていった形跡があった。それ以外の全部を置き去りにして、二人は消えた。

――ちゃんと生きていきます。

――死んだりはしない。

簡素で短い書置き。それからは“探してくれるな”という強い意志を感じさせた。

「ほっとけよ」
とスパーダが言った。僕もそれに賛成だった。エルは明らかに泣きそうな顔をしていた。一番怒っていたのはイリアで、相談もなしにと弾けるように怒りを爆発させていた。
それから何度か季節が巡ったけれど、二人の行方はようとして知れなかった。
どこかの港で男女の水死体が揚がったと聞けば向かったし、廃村で若い女性が首を吊っていると聞けば駆けつけた。ガラムの傭兵ギルドに何度戦死者リストの発行を依頼しただろうか。
だが彼らがいなくなって五度目の夏を迎えたころに、それも止めた。
ちゃんと生きていきます、とアンジュは書き残した。
死んだりはしない、とリカルドは書き残した。
彼らは大人だ。僕よりずっと年上の大人だ。少し子供っぽいと思ったこともあるし、裏切られたこともあるけれど、信頼に足る二人だ。そんな二人が『生きる』『死なない』というのなら、違えることはないだろう。

だから、不安はないのだ。金輪際、二度と会えなくたって、生きているのならそれでいいと僕は思った。
どうして、なんで、という問いは山ほどあるけれど、いなくなった人に聞くことは出来ないのだから仕方ない。
どこか僕の知らない場所で、知らない町で、知らない幸せを見つけていてくれればそれでいい。

……ただ欲を言うなら、僕の夢が叶うのを見ていて欲しかったと思う。
あなたなら素敵なお医者様になれるわよとアンジュは言ってくれた。
お前の人生なのだから好きに生きればいいとリカルドは言ってくれた。

リカルド、僕は自分で自分の道を選んだよ。

アンジュ、本当に立派な医者になれるかな。

そういった決意を、不安を報告する先はもうない。弱音は奥さんにもスパーダにも話せるけど、全部は話せない。

アンジュ、今も笑って過ごしているの?

リカルド、今度は大事な人をなくさないでね。

そういったお節介もやけない。子供が偉そうにと彼は言うだろう、ありがとうと彼女は笑うだろうと想像するだけだ。
彼らの生き死にを追うのはやめたけれど、街を行きかう人々の中に似た姿を探してしまうのはやめられなかった。朝でも夜でも、どの季節でも、出逢った時のアンジュの年齢を越しても、リカルドの身長に近くなっても。
「いや、よお考えてみ?」
僕がおじさんになっているなら、リカルドはおじいちゃんになっていると、同じくすっかり歳をとったエルマーナがいう。互いに手にしているのは、ワイングラスだ。
「おっちゃん今頃総白髪やろうし、姉ちゃんはしわくちゃやろ。今更逢ったって分からんって」
そんな冗談か本心か判断がつかない一言を、皺が増えてきた顔で言う。訛りはほとんど出てこない。
「そうだろうか」
反射的に出た言葉はひどく老成していた。当たり前だ、僕はもう五十になろうとしている。そうそう、とエルマーナは頷く。彼女も随分皺が増えた。
「だからもう」
追加の一言はしんと、静かな熱を持っていた。言わんとすることは僕にだってわかる。
最初に話題にあげなくなったのはスパーダだ。エルマーナも最初の数年は気にしていたが、もう数年もしたら主題は孤児院経営になった。
イリアは……覚えている限りでは、二十五歳くらいまではあちこち回っては情報を集めていたように思う。それ以降は子供が出来たからか、まったく口に上らなくなった。
五年で切り上げたと言ったけれど、機会を見ては調査を出していた。書斎の引き出しには報告書の束が眠っているし、日記にはどこで似た人を見たかと書付がある。
割り切ったふりをして、一番未練がましく追い続けていたという自覚はあった。
仲間たちが忘れて、過去にしてしまったものの影をあてもなく探しては、僕だけは忘れていないよと示す。示す相手はどこにいるかも分からないのに。銀髪か白髪か分からない頭になっても、目を悪くしてもまだ追い続ける。

深夜、庭に出て報告書の紙束に火をつけた。端々が痛んだ紙は火の回りが遅い。空は高くて星が瞬いている、星座は詳しくないから分からない。
時間をかけて紙束が塵になっていく。ひら、と少しだけ空に舞った。二十数年分以上の記録がじわじわと消えていく。
実際のところ、僕はもうリカルドたちの事を思い出せなくなっていた。顔は写真があるけれど、声はもうとっくに濁ってしまった。アンジュはどんな風に僕を呼んだっけ、僕を叱るときのリカルドの声は。
……ただ、もう一つ、最後に言うのならば、今更伝わるのならば。
どんな時も君たちは大切な友人で、尊敬すべき大人だったということ。君たちが大好きだと、もっときちんと伝えたかった。
じわじわと燃えていく記憶の中、彼らは二十七と二十のまま、若く滑らかに残っている。
きっと僕が死ぬまで、永遠に。夜空の星のように知らず瞬き続けるのだろう。

初出:2021/02/09
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