アナザー・リード・ワード
トリック・オア・トリート。
誰も彼も不可思議な響きを合言葉に、街を練り歩いている。
聞きなれないその呪文を口にする人はみな、妙な仮装をしていた。尖った帽子を被ったり、古めかしいマントをまとったり、果ては体中包帯を巻きつけたり顔面を青く塗ったりと多種多様だ。
今もまた、リカルドの横を思い思いの仮装をした子供たちが笑いながら駆け抜けていく。
トリック・オア・トリート。
呪文の意味するところは『お菓子をくれなきゃいたずらするぞ』だという。
脅かされ役はいたずらされては困るので菓子を渡す。実際のところいたずらしてみろ、と言う者はいないらしい。様式美というやつだ。
ここが異世界だという事を差し引いても、理解が出来なかった。自分たちの世界でも国が変われば風景も風習も違うが、こんな催し物はどこの国にもなかったはずだ。茶番だと一笑に付すのは簡単だが、想像の二段上をいっている。
ルカはイリアとスパーダに引っ張られ、菓子目当てに街へ出ていった。エルマーナはキュキュと組んで菓子を配る側に回ったようだ。ならばコンウェイはというと、意外なことに仮装をして脅かす側を選んでいた。どういう風の吹き回しなのだろうか。
そしてアンジュはというと、子供に菓子を配る側を選んでいた。仮装をした子供たちにひとつひとつ菓子を手渡し、脅かされればわざとらしく驚いて見せる。
ハロウィンに不参加を決め込んだメンバーが集う談話室、一角の窓から見えるアンジュの姿を目で追う。フィリア、エステルと白い服が並ぶ。その中でも少しだけ小さな背は、あちらこちらへと忙しなく動いていた。
あれだけ運動が苦手だと言っていたくせに、動きはきびきびとしている。ある程度追い続け、やめた。
談話室を出、通路を歩く。ふとはがれかけたポスターに目がいった。
ファラ生活向上委員会メンバー募集……と見覚えのない文字で書かれている。書いたのは誰だろうか爪で引っ掻いたようなそれは字ではなく一見絵に近く、少なくともリカルドのいた世界の『文字』とは似ても似つかない。
だがリカルドはそれが読めた。誰が書いたのか、そも絵なのか文字なのか区別もつかないけれど、目にすれば一拍置いて頭の中に意味が流れ込む。これが『エンコード』によるものなのだと説明されたのは、イクスたちと顔を合わせた時だった。
元居た世界の記憶は鮮明に記憶したまま、見たこともない文字でも一目で判別できる。出来るはずのないことが、今ここでは叶う。今この瞬間存在する自分がかつてのリカルド・ソルダートかどうか、リカルド自身も分かりはしない。
「あらリカルドじゃない」
ふと名を呼ばれ、振り返る。通りに面した道に出された屋台、その中にルーティがいた。いつの間にか街中まで出てきていたのだろう、橙と紫を基調とした飾りがそこら中にあふれている。
「ねぇ、せっかくだから買っていってよ」
手袋に包まれた指先が指し示すのは、街中と同じような色合いで包まれた菓子だった。抜け目ない彼女のことだ、配る菓子がなくなった者向けに商売をしているのだろう。
「高くないか」
「場所と日を考えれば適正価格でしょ」
手書きの値札の文字はやはり理解が出来ないが読めた。どれでもひとつ十ガルド。メッセージカード一枚三ガルド。ペンはご自由にどうぞ。
「ま、同じ鏡映点のよしみでまけてあげる。八ガルドでいいわよ」
「……ならひとつ貰おう」
金勘定に厳しい彼女からすれば十分な譲歩だろう。言われた金額を支払い、一番近くにあった包みを手に取った。淡いパープルの袋、口元は細いリボンで縛られており小さな紙タグがついている。中身を示すためだろう、ビスケットとスタンプが押されていた。
「まいどありー」
再び歩き出したリカルドの視界を、子供たちが横切ってゆく。黒いシーツを被った少年はなんの仮装なのだろうかと考えて、死神なのかもしれないと思い当たる。彼らの向かう先は菓子を配る一団だ。
「トリック・オア・トリート!」
「まあ怖い。お菓子をあげるから、いたずらしないでちょうだい」
アンジュの声はどこにいても分かる。ほんの少しだけ大人の色を混ぜた少女の声。これだけは聞き間違うことはない。
菓子を貰ってはしゃぐ子供たちに手を振ると、ついと顔を上げた。丸い頬と瞳がリカルドを認め、ふわりと笑みの形になる。それを合図に彼女の元へと歩を進めた。
「あらリカルドさん、お菓子を貰いに来たんですか?」
「いいや、通りがかっただけだ」
それ以外に言いようがなかった。だがアンジュはそうですか、とだけ言うとまた近寄って来た子供に菓子を渡す。今日だけで何度目かの、トリック・オア・トリート。
「随分と慣れているな」
「教会の奉仕活動にお菓子配りもありましたから」
小さな子供が来れば目線を合わせ、背の高い者が来れば顔を上げる。群がる子供も器用にいなす姿は、確かに経験者のそれだ。
「とはいえ、配るばかりなのも飽きるだろう」
差し入れだ、と付け加えて包みを差し出す。リカルドの片手に乗る小さな包みもアンジュの手に乗れば大きく見えた。
「トリック・オア・トリートって言う前に貰っちゃいましたね」
アンジュは受け取った包みとリカルドの顔を交互に見、そしてわずかにはにかむ。
「言われないと渡せない決まりでもあるのか」
問いにアンジュはまた頬を緩める。口元に手を当てて笑う仕草は、年より少し大人びて見える。
「まあ、この世界の祭りには疎いということで見逃してくれ」
「はい。そういうことにしておきます、差し入れも――」
ひらり、手にしていた包みを見る。賑やかな音楽に紛れ、どこかで子供がはしゃぐ声がした。
「……リカルドさんっ」
短く、小さな悲鳴。二人の間でだけ弾けた声。
じっと見つめていると、再び目が合った。手には紫と橙で彩られた籠、薄ぼけた石畳に立つ白い法衣。青い髪、薄紫の瞳。極彩色の中に混じる見慣れた色。
「どうした」
問いかけるふりをしながら、口角が吊り上がるのを自覚する。きっと性根の悪い顔をしていたのだろう、アンジュは小さく肩を怒らせた。
「……やっぱり、ちゃんと言わせてください」
ついと上げた右手には、先ほど渡した包みがあった。ああ、やはり。湧き上がる感情をなんと呼ぶべきか。
「トリック・オア・トリート」
少しだけ上擦ったアンジュの声。恥ずかしがるような、照れを押し殺すような色に、そっとコートの襟を押さえた。
菓子の裏のタグに、書き示した言葉に気付いたのだ。元居た世界の、慣れた文字。きっとすぐに分かるだろう、それこそエンコードの力など借りることもなく。
「なんだ、菓子だけじゃなくていたずらも御所望か?」
「もう、そんなこと言ってないでしょ!」
むっと尖らせた唇、寄せた眉。見慣れたそれにまた口元が緩む。つい先ほどまで冷ややかな目で祭りを見ていたはずなのに、今はこんなにも面白い。
「大体お菓子といたずら一緒なんて」
「この世界の祭りには疎いとさっき言っただろうが」
「そういう問題じゃないでしょう。わざとやってることくらい分かってるんですからねっ」
ぷくり、子供の用に頬が膨らむ。むくれるその表情が懐かしく、いとおしいく感じる。これだけは誰にも書き換えられないし、書き換えさせない。リカルドがリカルドであるという証左に他ならない。
「ちょっともう、なに笑ってるんですか」
今日二度目の膨れた声。ああこれもまた懐かしいな、とリカルドはまた口の端を吊り上げた。