空に雲 夜に朝

偕老かいろう、って知ってますか?」
アンジュの問いかけに、リカルドはすぐに答えなかった。
アシハラ特有の取っ手のないカップを手に取り、中の茶をすする。それに倣ってアンジュもカップを手にし、両手でゆるく包んだ。
ここ数日アシハラに滞在している。穏やかな陽気は街中の木々という木々を花開かせており、薄甘い匂いが漂っていた。
夢のように長閑な雰囲気は時間の進みを遅く感じさせる。この気候のせいか、街を行き交う人もまたゆったりとしていた。子供たちこそ元気よく走り回るが、若い女性も中年の男性も、腰の曲がった老夫婦もみなひどく柔らかく動いていた。
「知らん。 アシハラここの言葉か」
穏やかな空気に、満開の花々、穏やかな人々。少し潮のにおいが混ざった空気は平和、安寧と言った言葉がよく似合う。それにつられてかリカルドの声もいつもより穏やかに聞こえた。
「ええ。老いるまで一緒に過ごそうという意味なんですって」
言い切ってからややあって、リカルドは再びカップを傾けた。なるほど、と一言。
「要は『共白髪』というやつか」
視線を海へ向けたままの呟きに、アンジュは小さく頷く。
共白髪。意味するところは『お互いが白髪になるまで夫婦ともに過ごそう』という約束事だ。
「リカルドさんは白髪にならなそうですよね」
リカルドの髪はひとつの曇りもない黒髪だ。宵闇をそのまま落とし込んだような鮮やかな黒は、同じ黒髪が多いアシハラの民でもそう見られない。
一度敵としてまみえたチトセという少女も美しい黒髪をしていたが、リカルドの髪はそれよりも深く濃い色をしているように思う。
「俺も想像は出来ん」
この黒髪が一房でも白く曇るところを想像するのは難しいだろう。アンジュだって無理だ。髪の色が変わってしまうほど先の事なんて、考えたことはない。
まだ少し熱い茶を一口含むと苦味が口の中に広がった。鼻から息を抜き、その香りを感じながらもう一度口に含んでいく。
「ただ、そうだな」
茶をすする間に、リカルドが小さく呟いた。目だけで横顔を伺うと、白く薄い頬が見える。ほとんど色のない頬の中、薄い唇がゆっくりと動く。
「白髪になるのなら、兄者のようにはなるだろう、とは思う」
「……それは」
リカルドの言う兄が誰の事を指すのかなど、問うまでもない。柔くうねった白髪と古木のような体をしたかの人。傍目には歳を重ねた老人でしかなかったが、その内側には気が遠くなるほどの年月が折り重なっていた。
リカルド自身と彼の間に血縁関係はない。だが、魂が繋がっているのなら似る可能性もないわけではない。どう返すべきか考えあぐねているアンジュを見かねてか、リカルドは少し困ったような顔を見せた。
「君は白髪になっても似合うだろうな」
「そう、でしょうか」
曖昧に濁して答えるしかない。参考にすべき父母はとうにいないし、同じ髪色をした兄も白髪になるには若すぎる。
青い髪は珍しいものではあるが、気に入ってもいる。出来れば変わりたくはないが、そんな保証はどこにもない。
「この色なら、たとえ白くなっても問題ないだろう」
「どうしてそう思うんです」
妙に自信ありげな口ぶりだった。彼にしては珍しくて、つい追求の言葉をつないでしまう。
「青空には雲がつきものだからな」
ならば青に白が混ざってもなにもおかしくはない、そうリカルドは言い切る。その口調はどこか楽しげだった。つられて微笑みそうになる自分を律しつつカップを置いて、息を吐く。
「……なら、あなたも同じです」
今度はリカルドが瞬きをする番だった。不思議そうに歪んだ眉に思案の色を読み取る。
「どんな暗闇にも、いつか光が差すものでしょう?」
どれだけ深い夜でも、先の見えない闇でも、いずれは朝が来る。そのとき一筋、二筋と差し込む明かりのように白いものが流れる日も来るだろう。
それは老いではなく、きっと祝福になる。
「……いつになるやら」
呆れたように肩をすくめる仕草に思わず声をあげて笑ってしまう。それにつられたのかくつくつとリカルドが喉の奥で笑い出した。
「そのころにはお互いに皺だらけになっていますね」
「だろうな。腹も出ているかもしれん」
「もう、怖い事言わないでください」
いくら遠い未来の事とは言え、体型のことについてはあまり考えたくない。ひとしきり笑ったあと、アンジュは自分の髪をつまんでみる。細い指の間をすり抜けていく自分の毛先が白く染まる姿はまったく想像できない。
あの老夫婦のようになるかもしれない? そんな未来はまだ、少しも見えない。
「俺は」
リカルドの声。甘い匂いを含んだ風に押されるようにして顔を上げる。長い黒髪が風に吹かれ、流れていくのが見えた。
「君の腹が出ても、皺だらけになっても構わない――と言ったらどうする」
真顔でじっと見つめてくる。冗談めかしたところは微塵もなくて、まるで心の底まで見透かされそうな気分になった。思わず目をそらしてしまいそうになり、唇を引き結ぶ。
「わたしも、あなたがしわくちゃのおじいちゃんになっても、お腹が出ちゃっても構いません」
顔を上げてまっすぐに見返す。視線がかちあい、ややあってからリカルドが唇を歪めて笑った。
「随分と情熱的な事だ」
「あら、あなたもでしょう」
そう答えつつ胸元に手を当てたところでふと動きを止める。
この心臓の音だって、変わらないままだろうか。それともこの先少しずつ小さくなっていったりするのだろうか。それは少し恐ろしいことだけれど。彼と共に歩んでいけるかもしれないと思えば、それ以上に強い喜びだと確信できた。
「なら兄者ほどとは言わずとも、長生きしなくてはな」
「そうですよ。頑張ってください」
「お互い様だろう」
言い返す口調に、もう悲壮感はなかった。穏やかな声で続ける彼の言葉を聞きながら空を見上げる。
人はいずれ死ぬ。アンジュもリカルドもそれは例外ではない。眼前に広がる穏やかな風景だって、そう遠くない未来に海底へ沈んでしまうのだ。
それどころか数ヵ月もしないうちに世界が滅んでしまうかもしれないのだ。そしてその命運は十五にもならない子供たちの肩にかかっているなんて。
彼には言わなかったけれど、アシハラにはもうひとつ偕老洞穴かいろうどうけつという言葉があるのだという。意味を伝えたら、どんな顔をするのだろうか。少しだけ見てみたいと思ったけれど、胸の奥に仕舞っておくことに決めた。
ああ、もし叶うのならば。
その通りになれれば、というわけではないけれど。
たとえ別たれても、最期は共に居られるように。どうかお守りくださいと、ひそやかにひそやかに、天に祈った。

初出:2021/11/30 いい夫婦の日の話
close
横書き 縦書き