はじめての

「はじめてのキスって覚えていますか?」

アンジュの問いかけはいつも唐突で取りとめがない。そして突拍子もない。夜の酒場ならまだしも、今は昼。そしてここは人の行きかう街中だ。
リカルドは目線だけで周囲を伺う。昼は過ぎたが夕方というにはまだ早い時間帯もあって、人はそう多くもない。二人が腰を下ろすベンチの両隣には親子と老人。周辺に人の姿はあれど、誰の視線も向けられていないのを確かめて、そっと息を吸った。
「……そんなことを聞いてどうするんだ」
「ちょっと気になったんです。ダメでしたか?」
穏やかな笑みを浮かべ、小さく首を傾げてみせる。口元に添えた手はしとやかで、言葉の意味もあいまってひどく少女めいて見えた。
「人に聞くなら、自分から話すべきだろう」
あからさまな逃げ。しかし隣り合う彼女は二度瞬きをしただけで、こくりと頷いた。 「ええ、お相手も年齢も場所も覚えていますよ」
妙にはっきりと言い切るので、リカルドの好奇心もゆるりと芽を出す。
「一番最初は十四歳の時で、同級生でした。図書室の本棚の影で」
アンジュの告白は続く。リカルドはただ耳を傾ける。投げ出していた足を組み替えると、靴底がわずかに砂を噛む。
「二回目は十七歳の時でした。これは一つ上の先輩、確か中庭の影だったかなぁ」
アンジュに恋人がいたという話は耳にしていた。教会の事情は詳しくはないが、婚姻の自由化が認められたことくらいは知識としてはある。
あまりいい思い出ではない、とも言っていたがこうして雑談できるならそう深刻な過去というわけでもないのだろう。
「それで、あなたは?」
ああ、やはり水を向けられた。肩口の少し下、薄紫色の瞳がねだるように瞬く。
右隣のベンチに座っていた親子連れが立ち上がり、雑踏に消えていくのを目の端で追ってから口を開いた。偶然なのか空気を読んだのかは、この際どちらでもいい。
「最初は忘れた。多分君と同じぐらいか、それより前だったと思う」
誤魔化しではなく、本当に記憶になかった。リカルドの十代前半はほとんどが訓練所の記憶で埋め尽くされている。少なくとも、地獄のような日々の中色恋にうつつを抜かしている暇はなかったはずだ。
「二回めは……初陣の前だったから十六ぐらいだな」
「お相手は?」
「その日初めて逢ったからな、年も名前も知らん」
その言葉でアンジュは大方を察したのだろう、ふうんと小さく声を漏らすだけだった。
スカートの上で組んだ指が手遊びするように動いている。もう気が済んだだろう、立ち上がろうとわずかに腰を浮かせる。
「ちなみにわたしの三回目はですね」
「……おい、まだ続けるのか」
呆れるリカルドに対し、アンジュはにこりと笑みを崩さない。もちろん続きますよ? と言うので、仕方なくもう一度腰を下ろした。
「三回目は年上の人で、二人で出かけていた時でした」
やはりはっきりとした口調に、耳を傾ける。左隣のベンチに座る老人はいつの間にかいなくなっていた。
立ち去るのは簡単だが、その後が面倒だった。契約を持ち出してああだこうだとごねられるくらいなら、惚気話を聞き流していた方がいくらかましだ。
「あの日は月に一度の大市の日で、二人でたくさん買い物をしたんです」
内容が妙に詳細になった。記憶力がいいのは承知だが、こうもはっきりと覚えているものだろうか。
目線だけを隣に投げる。真っすぐに切りそろえた前髪を指で流すのが見えた。
「それから市を出て細い路地に入ったんです。こっちの方が宿まで近いっていうから、ついて行ったんですけど」
「……おい」
嫌な予感がした。悪寒や焦りではない妙な予感が、リカルドの背を滑り落ちる。
「そしたら急に肩を抱き寄せられて。わたし、びっくりして荷物を落としそうになっちゃって」
「待て」
アンジュの唇は止まらない。つらつらとこぼれていく言葉は、あまりにも毒だ。花の色にも似た一対の唇は、ふわふわと揺らめき動く。
「強引にキスしてきたのはあっちだったのに、どうしてか真っ赤になっちゃって」
「分かった。分かったからそれ以上は言うな」
続く言葉は手でふさいだ。図らずもアンジュに覆いかぶさるような格好になってしまったため、外部からは白昼堂々の行為に見えたらしい。いくつか視線が向けられているのが背中越しにも分かった。
ほんの少しだけ顔を離す。視界にはアンジュの顔しかうつらない。相変わらず笑みを浮かべているが、頬にうっすらと朱が散っているように見えるのは気のせいだろうか。
「……ちなみにあれは、あなたにとっては何回目のキスだったのかしら」
「……少なくとも両手では足らんな」
両手どころが両足の指を足しても足らないだろう。正直ですね、とアンジュは笑う。
再びベンチに深く腰を下ろす。ちらちらと向けられていた視線が一斉に離れていくのが肌で分かった。少し離れた場所を行きかう人々は、リカルドらの方を伺いながらも足早に通りを歩いていく。
「その……嫌だったのか」
たっぷりとした間のあと出たのは、なんとも間の抜けた質問だった。
「嫌だったらその時にちゃんと言ってます」
アンジュはたおやかな見た目に反し、物事をはっきりと言う質だ。本当に不快だったのならその場で押しのけられて、頬を張られていてもおかしくはない。
ならば、つまり、どういうことか。
聞いてしまえば楽だったが、聞くには少し躊躇われる。首筋に薄く熱がある、日差しのせいだと思いたかったが生憎ここは日陰だ。
「ただ、あれ一回きりだったら、少し寂しいなって思って」
キスをしたのはあの日あの時だけだ。リカルドからキスをして、アンジュはぽかんとあっけにとられた顔をしていた。それからどうやってルカたちと合流したのかは、記憶が定かでない。
唇に唇を触れさせるだけのキスと呼べるかどうかもあやふやな行為。夢か幻かの如く曖昧なものは、確かに事実として胸に残っている。
その後は互いに触れずに過ごしてきた。ずっと移動と野宿が続いて二人きりになる機会もなかったからだろうか、そうしていつかただの『一時の気の迷い』として落ち着くはずだったのだが。
「今日も路地裏を通って帰りますか?」
こうしてまた揺り動かされる。形の良い唇が次をつなげる。誘われてるのだろうか、恐らくそうなのだろう。アンジュの笑みは極めて柔らかだったが、どこか蠱惑的に見える。
「宿じゃなくていいのか」
口をついて出た言葉に、アンジュが目を瞬かせる。薄く開いた唇は淡い桃色だ。
「その言い方だと、路地裏でしてほしいと言ってるようなものだぞ」
ぶわ、とアンジュの顔が真っ赤に染まる。首筋から頬、耳にかけてまであっという間に色づいた。先程までの誘うような色は一瞬にして消し飛ぶ。
「違います! そんなつもりじゃないし……それになんですか宿って!」
「人目につく場所だと困るだろう」
誰に見られるかもしれない場所ではなく二人きりの場所という意味での提案だったのだが、アンジュはどう捉えたというのだろう。赤く染まった頬と、丸くなった目。あの日と同じだが、立場は逆だ。
「……なにを考えたんだ?」
攻守逆転。そんな言葉が脳裏に浮かび、リカルドの口元が吊り上がる。対するアンジュは慌てたように手をぱたぱたと振って見せるばかりだ。
「なにも、なにも考えていませんってば!」
「もしかして外でする方が好きなのか。ならご希望通り路地裏を通るか」
「そんなわけないでしょう!」
焦ったのか肩を叩かれる。焦っているのだろう、勢いの割に痛みはまったくなかった。
「だったら宿に戻ってだな。戻るまで我慢してくれると助かる」
「もうリカルドさんっ!」
面白いくらいにうろたえ、赤くなる。傍目かた見たら痴話喧嘩に見えるのだろう、再び周囲からの視線が寄せられているが、今回ばかりはそう不快でもない。
小さな拳が肩を叩く。この手を奪って――あの日と同じように――キスをしたらどんな顔をするのだろうか。どうしようもない衝動が胸を突いたが、何とか押しとどめる。
続きは宿――までは少し長すぎる。せめて路地裏まで待とう。こんなに愛らしい顔を他人にも見せるなんてあまりにも勿体ない。

初出:2022/7頃 微修正
close
横書き 縦書き