宝石のような

「そういえば」
会話を切り出した午後二時。木漏れ日がティーカップの中にも落ち、そこだけ湖面のようにちらちらと揺れている。
「わたし昨日誕生日だったんです」
「知っている」
向かいに座るリカルドは目線だけを寄越し、またすぐに逸らした。向ける先は雑踏の中だ。
別に秘密にしていたわけでも、重大機密というわけでもなかったが、あまりにさっぱりとしていて逆に拍子抜けしてしまう。
「ご存じだったんですね」
「最初に身辺調査をした時にな」
なるほど、と内心得心する。ただ新聞や伝聞だけではアンジュの誕生日まで知ることは出来ないはずだ。恐らく教会の名簿でも見たのだろう。外部の人間が見ることが出来なかったはずだが、きっとそこは彼なりの伝手によるものだと推測した。
「なにか欲しいものがあるのか」
「いいえ、特には」
新しい武器は前の街で新調した。服の下に着る防具も古くはあるがまだ充分使える。
そうでなくてもアンジュの私物は少ない。いつも身につけているネックレスにハンドクリーム、髪につける香油。ハンカチが何枚か、それから色の薄い口紅くらい。読書は趣味だが古本を買っては売るの繰り返しで、手元に残った本はない。
「香水などに興味は」
そう言われて少しだけ考えた。
「つける習慣もありませんし、特に興味はないですね」
「ならアクセサリーはどうだ」
「それも特に。落としちゃうといけませんし」
細い眉が寄る。厳しい表情をしているときのリカルドは何度見ても威圧感があった。旅を始めた最初期は恐々だったけれど、今では意味もしっかり読み取れる。
今のこれは怒っている訳ではない。呆れているのだ、彼は。
「……君は物欲がないのか?」
訝し気な声をうけ、カップに唇をつける。香りの少ない紅茶がつうっと喉を滑り落ちていく。
「そういうわけじゃありませんけど」
流行りの服を見れば着てみたいと思うし、華やかなアクセサリーも気になる。新作の化粧品もちょっと試したりはする。今だってカフェに入ったはいいが、注文するケーキをフルーツタルトかチョコレートケーキかで散々悩んだ。
「教会にいたころ、信者の方からたくさん贈り物をいただいたので」
カップの中の小さな湖面、その中に視線を落とす。
一介の修道女から聖女へと呼び名が変わってから、沢山の贈り物をもらうようになった。
誕生日はもちろん、生誕祭や感謝祭など節目ごとに贈り物は増えていった。数えきれないほど沢山の信者から、沢山の贈り物を寄進として受けとる。日に日に高く大きく積み上げられていくそれらすべてには、なにかしらの感情が込められていた。そしてその大きさは眩暈がするほどで。
「――だからもう、貰うのはいいかなって」
アンジュの言葉にリカルドは僅かに顔を顰めた。なにか言いたげに唇が動いたが声にはならない。代わりに短くため息を吐く。
「ならミルダたちにも伝えないでおこう」
「ありがとうございます」
ルカたちが祝ってくれるのなら、なにか贈り物をくれるのなら嬉しい。きっとなにを貰っても幸せだと思えるだろう。
けれどそれを素直に受け止めるにはアンジュはまだ、踏み出せずにいた。どうしてもその裏を、その奥に隠された意味を探ろうとしてしまう。大切な子供たちにこんな一面を見せるわけにはいかない。
にっこりと微笑んで返すが、リカルドはちらと視線を寄越すだけだった。
そのまま二人の間に沈黙が流れる。テラス席のため、店内音楽はここまで届いておらず、かわりに雑踏から聞こえる物音が耳を撫ぜていく。
人々の足音や話し声を耳にしながら、互いに口を紡いだまま。時々カップを傾け、チョコレートケーキを口に運ぶ。
若干の居心地の悪さを感じながら、しかし気まずいわけではない。不思議な時間だった。
「ならせめてここの代金は奢らせてくれ」
沈黙を破った呟きをアンジュは聞き逃さなかった。顔を上げるとリカルドと目が合う。切れ長の目の中、そこにも小さな湖がある。
「消えるものなら君も後腐れはないだろう」
この人はどこまで知っているんだろうか。そんな疑問が頭に浮かぶ。
おそらく全てではないのだろう。それでもアンジュにとっては大きな部分を知っている気がしてならなかった。それは彼の言葉の端々に滲む、確かな優しさによるものなのかもしれなかった。
「じゃあ、もうひとつケーキを頼んでいいですか?」
甘えてみることにする。彼は少しだけ目を見開き、続いて口角を吊り上げた。
「ひとつでいいのか?」
おどけたように問われて思わず吹き出す。それからアンジュはこくりと小さく首肯した。
「じゃあ、ふたつ。いいですか?」
「もちろん」
言うと同時に手を挙げて店員を呼び止める。
悩んでいたフルーツタルトと、実は気になっていたチーズケーキを頼んだ。店員がメモに書きつけるのを見て、もう一度向かいに座る人へ向き直る。
「今日はダイエットのことは言わないでくださいね?」
ふ、と空気が漏れるような笑い声。口元を手の甲で押さえたまま、広い肩が小刻みに揺れる。
「もうなんで笑うんですか!」
「いやすまん。わざわざ自分で言うのかと思って」
「先に言われないようにって釘を刺したんです。リカルドさんすぐ嫌味いうんだからっ」
この人が、こんな風に笑うなんて知らなかった。
きっとまだ知らないことの方が多いんだろう。好きな色も好きな食べ物も、それこそ生まれた日もアンジュは知らない。
「……リカルドさんのお誕生日もお祝いさせてくださいね」
先に運ばれてきたタルトにフォークを突き刺す。つややかな苺が宝石のように輝いていた。
アンジュの言葉に、リカルドは一瞬だけ固まったあと、ふっと笑った。
「ああ、楽しみにしている」
小さな青が優しく揺れる。アンジュもつられて微笑んだ。
本当に祝える確信なんてどこにもないことは、きっと互いに理解していた。
明日、この旅は終わりを迎えるかもしれない。明日、どちらかが死ぬかもしれない。生まれた日も知らないのだから約束以前の問題だ。
けれど約束をするのもいいと思えた。少なくとも今日、ここにいる間だけは。そう思いながら、アンジュはまた一口、タルトを口に運んだ。

初出:2022/04/25
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