鈍くて、甘い

誰かにだけ見せる姿がある。誰かにしか見せたくない姿がある。

それはきっと羞恥の伴うものだったり、普段の自分とはかけ離れた醜い部分だったりするのだろう。
目の前に下がった髪に指を絡めながら、ぼうっと思う。本人曰く、手入れには気を使っているという髪は、確かにさらさらとして触り心地がいい。
髪紐で縛った髪は長く、今は背中の中ほどまで垂れている。もう一度指を通す。指にするりとまとわりつくと、はらりと逃げた。

「どうした」

髪が喋った。正確には髪の主が。アンジュは髪を梳いていた手を止めて、目の前の背にもたれかかった。

「どうしたんでしょうか」

呟いた声は、問いかけるような色だった。それがアンジュ自身へのものなのか、髪の主であるリカルドへのものなのか、わからない。
リカルドもそれ以上は聞くこともなく、アンジュのさせたいようにしていた。
ランプの明かりの中、リカルドの手は机に向かっていた。広げられた布の上には銃のパーツだろう、細々した金属片が転がっていた。
アンジュはそんなリカルドの背に体を預け、じっと固まっていた。時々思い立ったように顔を上げて、リカルドの髪を梳く。時々持ち上げたり、指先でもてあそんでみたりするのだが、ある程度するとまた髪と背中に顔を預けてみる。

「リカルドさんの髪は、真っ黒ですね」

ぽつ、と零れた声が二人きりの部屋に落ちる。そうだな、と返す間もリカルドの手は止まることなく整備を続けていた。時々鳴るわずかな金属音が、耳に心地よい。

「色も髪質も母譲りでな」

そうリカルドが言うのを、髪を撫でながら聞いていた。背中にへばりついているので、喋るのに合わせて背中が揺れて、そこだけ髪も揺れた。

「君の髪も綺麗な色をしている」

その言葉にありがとうございます、と言葉を返す。アンジュもこの髪色は気に入っていたが、伸ばすと巻いてしまう髪質は少し気になっていた。けれど、そう言われると嬉しくなってしまう。

「……わたし、邪魔じゃないですか?」
「ああ」

背中に添うように当てていた手を腰へと回す。リカルドの腹の位置で手を組むと、完全に後ろから抱きついた格好になった。
今まで抱き合うことは数あったが、こんなふうに甘えるように抱きつくのは初めてかもしれない。リカルドもそれは分かっているのだろう、回したアンジュの手に自分の手を重ねてきた。
男女であると同時に、二人は契約を結んだ主従関係だった。ルカたちの前では大人として振舞っていたし、まさかこんな関係を持つことになるとは思ってもいなかった。
旅の間に数少ない逢瀬の時を見つけ、互いの髪や体に触れた。特にリカルドの髪に指を絡めたときの、さらさらとした感覚がいとおしくて何度も触れながら口付けたものだった。

「わたし、いつも抱きしめてもらっていたから」

こうやって後ろから抱きつくのは初めてです。ほう、と吐き出す息に乗った言葉はリカルドの耳を撫でただろうか。
アンジュの視線よりもずっと高い位置にある耳は、耳たぶにふたつピアスを下げた形でそこにあった。丸く張り出した部分が、ゆらゆらした明かりに照らされている。
頬にあたる背中の感触はごつごつしていて決して心地よいものではなかったが、アンジュはそこから顔を動かそうとは思わなかった。

そうさせる思いの名前を、なんとはなしに気づいていた。
これがどういう名前で呼ばれるのか、どういう意味を持つのか。そしてそれはきっとリカルドには迷惑で、疎まれてしまう類のものだということにも。

「今日は甘えただな」

珍しい、と小さく笑う気配がした。腰に回した手を撫でられる感触もした。
厳しそうな見た目をしているくせに、リカルドは優しい。だからアンジュのこういう我侭を珍しいものだとして許容してくれる。

「そうみたいです」

やはり男の背中はごつごつとしているし、流れる髪は滑らかに滑る。頬に触れる感触はごたまぜになって、決して心地よいものではない。
けれど、せめて今のこの時だけでもと、すがった。

初出:2010年。微修正。
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