頑張らなくていいよ
死ぬまでに一度でいいから本当の恋がしてみたかった。
いつでも彼女の手は人を守るためにあった。
前世の記憶を取り戻し、天術を使えるようになり人を癒す聖女として崇められるようになってから、アンジュの手はいつでも人の手を取る立場になった。
子供の手も大人の手も貧富も清貧も問わず包みこみ、癒した。疑いもせず。
今、アンジュの手は大きな手に包まれている。男の人の手はこんなに大きいのね、と改めて思う。
指は太くて角ばっていて、手のひらは厚く、爪も硬くて短い。所々傷が残っているのは、この手の持ち主だからなのだろう。
「リカルドさんの手、大きいんですね」
重ね合わせた手を握り込む。どれだけ一生懸命開いてみても、アンジュの手はリカルドの手を包むことは出来ない。指が短いのか、手が小さいのかどちらなのだろう。
「わたし、こんなに小さかったかしら」
ぐっと手を開いてみるが、やはりリカルドの手とは比べ物にならないほど小さい。
何度も繰り返しているうちに、自分が彼の胸に抱かれていることに気づいた。膝の上に横抱きにされているので、顔を上げれば視線がかち合う。
「血が、出て」
リカルドの額、斜めに傷が走ったあたりから幾筋か血が流れていた。よく見ればきっちりと撫で付けた髪も乱れ気味だった。
どこか怪我をしてしまったのだろうか、治療をするためにとリカルドの顔に手を伸ばした。
「いい」
大きな手が、伸ばした手を絡めとる。手の影の向こうに見えるリカルドは、僅かに微笑を浮かべて首を横に振った。
「でも、ちゃんと治さないと」
「いいんだ、セレーナ」
絡め取られた手を、やわく握られる。その手を見るリカルドの眼はどこか痛ましげで、やはりどこか痛めているのではないかと疑ってしまう。
そういえばここはどこなのか、何故自分はリカルドの腕に抱かれているのだろうかと思い立ち、目を瞬かせる。ルカたちはどこに行ったのだろう、何故彼は怪我をしているのだろう、疑問はひっきりなしに頭に浮かぶがどれも立ち消えて朧に消えていく。
けぶる視界の中、リカルドの表情も見えなくなっていく。相変わらず厳しい顔をしているのか、それともさっきのように微笑んでくれているのか、全く分からない。
「リカルドさん」
名前を呼ぶと、握られていた手に力が込められる。ここにいる、という返事のような力強さに、胸が温かくなる。
「セレーナ、少し休め」
「でも」
「俺がここにいる……だから、少し眠るといい」
低い声が優しくアンジュを促す。細められた目の青はもう殆ど見えない。
あとでちゃんと手当てをしましょうね。念を押してから、アンジュはゆっくりと瞼を下ろした。
目を閉じたアンジュを、ただ見下ろす。服の汚れを払ってやり、顔の泥も拭ってやると、まるで眠っているようだ。
それでも法衣の真ん中に大きく染み出た血液は、ぽっかりと腹に開いた穴の存在を主張するかのように染み込み広がっていた。そこだけが異質で、目を背けたくなる。
血に塗れた手を自分のコートで拭うと、今一度アンジュの身体を抱きなおす。早くどこかに運んでやらなければ、いつまでもこんなうら寂しい場所に置いては可哀想だ。
放り出されていた手を胸元に運ぶと、生々しい断面が目に入った。
手首から先がなくなった右腕を、残った左腕で支える。その左手も数本爪がはがれて無残な状態になっていた。
リカルドが目を閉じるよう語りかけたあの瞬間まで、アンジュは自身は自分の手がなくなっていることに気づかなかった。それどころかリカルドの傷を治すように手を伸ばしたほどだ。
「……君は、本当に聖女だったな」
だった、と零しておいて口元を歪める。
最後の最後まで癒しの聖女であったアンジュは、人を癒す手をなくしてもリカルドを助けようとした。その優しさが嬉しく、そして同時に酷く憎い。
すでに息を止めたアンジュの体からは、熱が逃げ始めていた。冷めていく身体を抱きしめながら、リカルドは愛しい聖女の名を呼んだ。