眩むほど

「ねぇ、ちょっと」
代わり映えしない紙面に目を滑らせる。目を引くような内容はなく、リカルドが『未だ戦線は膠着状態』という見出しに差しかかったところで、声をかけられた。
「どうした」
声の主はイリアだとすぐに分かった。新聞を下げると赤い髪が目に飛び込んでくる。ぴんと外側に跳ねた癖が、本人の性格を現しているようだといつも思う。
「銃の調子がおかしいの。見て欲しいんだけど」
腰に下げたホルスターから拳銃を取り出し、差し出す。いつ見ても十五の少女の手には余る大きさだ。手渡された銃はライフルよりは軽いが、十二分に重い。己の重さを誇るかのようなそれを受け取り、検分を始める。銃弾が残っていないことを確認し、トリガーやハンマーを改める。金属がぶつかり合う硬質な音が、部屋に響く。
「トリガーが少し重いな。油は差しているのか」
「やってる」
「……なら中か」
外見で分からなければ中を見るしかない。工具を詰めた袋を荷物から取り出すと、机の上に開ける。
「取り合えず見ておく。お前はどこか出かけてろ」
テーブルの脇に立つ少女に声をかける。返事はない。
普段なら銃を渡した後、じゃあよろしくとだけ言い残して出かけていくというのに。そういえば今は自由行動の時間だったはずだと思い返し顔を上げると、イリアと目が合った。林檎のように赤い目がぱちりと瞬きをする。唇は何か言いたげに開いたかと思うと、すぐに閉じられた。
これはまた珍しい。リカルドは内心嘆息する。珍しいことは重なるものなのだろうか。考える間もイリアは留まったまま動かない。
どうしたものかと考え、ポケットから小銭を取り出す。イリアに差し出してやれば少しばかり躊躇った後、手を出し受け取った。
「時間がかかる。何か飲み物でも買って来い」
「……あんたは何がいいの?」
聞き返されて、窓の外に目をやる。正午は過ぎたといえまだ陽は高く、酒という雰囲気でもない。そうでなくても精密な銃のメンテナンス中に酒はご法度というものだ。少しばかり考えた後、ジンジャービアを頼んだ。甘くないものを、とも付け足す。
「了解」
短く言い残すと、イリアは部屋を後にする。足早に階段を降りる音を聴きながら、リカルドは小さく息を吐く。
何かあったのだろう、ということは分かる。あの年頃の子供が思い悩む事は多く、そうでなくても転生者として追われる身だ。悩みの種は尽きないだろう。
あれは明らかに話を聞いて欲しいという表情だった。頼られるほど打ち解けたのだろうかと安堵する反面、面倒だとも思った。元より子供の相手は得意ではないし、相手は激しやすいイリアだ。適当に話を合わせてやれば済むというものでもなさそうだ。
そしてそれを話好きではないリカルドに求めた、というのが意外だった。何か不安ごとや相談事があればアンジュに頼ればいい。彼女の方が彼らと年が近いし、なにより同性同士話しやすいはずだ。
「……どうしたものか」
椅子にもたれたまま、ひとりごちる。ルカたちから一切相談事を受け付けないというわけではない。
ただ、慣れていない。彼らのような真っ当な子供に何を教えればいいのか分からないのだ。
「おまたせ」
五分もしないうちにイリアが戻ってきた。手には色違いの壜が二本。そのうち色の濃い方と釣銭をリカルドに手渡す。
「甘くないのコレしかなかったけど、いい?」
「構わん」
イリアが選んだのは薄水色をした壜だった。ラベルの絵から察するにサイダーだろうか。ナイフの背を使って蓋を開けると、しゅん、と炭酸の抜ける音がふたつ鳴る。
ジンジャービアを一口煽る。炭酸が口の中で弾け、つんとした辛さが口内に広がる。舌の上にはほんのりと甘さが残るのが心地よい。中々上等の物を選んでくれたものだと口元を緩める。
一通り解体し、テーブルに並べる。並べたパーツを手に取り検分する間、イリアは口を噤んだままだった。少し離れた場所に置いた椅子に腰掛け、時折手にした壜に口をつける以外、目立った動きはない。
「なんか撃つときにしっくりこなくて」
間を埋めるように口を開いたのはイリアだった。メンテナンスに必要だと踏んだのだろう。同時にタイミングを計っているのだろう、と推測できた。
「だから、見てもらおうと思って」
「そうか」
自分からもう少し踏み込むべきかと考え、やめた。何を言いたいのかはイリアにしか分からない。もしかすると相談事などなく、ただ興味本位でここにいるのかもしれない。会話はまたすぐに途切れる。
「あのさ」
引き金の違和感の元がパーツの磨耗だとあたりをつける。交換ついでにバレルも換えてしまおうかと考え始めていたところで声をかけられた。
「何だ」
「髪、いつから伸ばしてるの?」
何の話だと惑ったが、自分の事だとは分かった。背中に流れる髪の終点は、椅子につくかつかないかの位置にある。
「三年は伸ばしてると思うが」
「三年あったらそれくらい伸びるの?」
「それは人それぞれだろう」
そう返してやるとイリアはそれきり黙ってしまう。むっつり口を噤んで気を損ねたかと思いきや、何やら考え込んでいるようでもある。
「あたしが髪伸ばしたら、どう思う?」
続いて飛んできた質問に首を傾げる。何が聞きたいのか分からないまま、イリアの赤い髪を見る。伸ばしても生来の癖毛は直らないだろうが、不似合いというようには思えなかった。悪くはないだろうと思ったままを言うと、またイリアは口を噤む。
「伸ばしたいのか」
「そういうんじゃないけど」
また間。次の言葉を待つ間、イリアの表情を観察する。普段は呆れるほど元気だというのに、今日は考えるような顔ばかり見せる。今日はとことん珍しい。
「……最近アンジュとよく話してるから、もしかしたら髪の長いのが好きなのかな、って思って」
それは何の話だ、そして誰の話だ。問うだけ無粋というものだろう。イリアが心を向ける相手など、リカルドが知るうちに一人しか居ない。
「つまり、ミルダの話か」
溜め息と一緒に問えば、間髪入れず違うと返ってきた。こういう場合はいつもどおりのイリアだ。
「ああ、すまん。別の奴の話だったか」
「いや、それも違う、んだけど……っていうか分かってんでしょ!」
立ち上がったかと思うとまた座る。先程までの大人しさが一転、騒がしく忙しない。気を揉んだ割に、内容は至極単純なものだった。
「セレーナに聞けばいいだろう」
「なんで最近仲いいの、って? 聞けるわけないじゃん!」
「ならミルダに直接聞け」
「どんなのがタイプとか、そんなのもっと無理!絶対無理!」
ルカの好みはイリアそのものだと思うのだが、口にするのはやめた。髪を伸ばそうが服装を変えようが、恐らくルカはイリアがイリアであり続ける限り、誰かに意趣変えするような真似はしないだろう。それをイリアは知らない。自信がないのかもしれない。
いつか裏切ると決めていた時から、数歩引いた場所から彼らを見ていた。リカルド、そして同じような立場のアンジュから言わせれば間違いなくルカとイリアは互いに思いあっている。それが微妙に噛み合わないのは何とも上手くいかないものだ。最もそれは彼らに限らず、自分にも言えることではある。上手く立ち振る舞えず、割り切ることが出来ずに道を違えた。ほんの一週間前の話だ。
「まあ相手の好みを探ってそれに近づこうとするのは、恋愛の常套手段だからな」
「なにそれ、意味深な発言」
「無駄に年は食ってないからな。それなりにはある」
ふうん、と気のない声。しかし視線は興味ありげに向けられている。
「髪型変えたり、好きそうな物プレゼントしたり?」
「まぁそんなところだ」
「それで相手には好きになって貰えるものなの?」
「それこそ人それぞれだ。成功するかどうかは分からん」
相手の好みを調べても当てが外れる場合もある。それで痛い目をみた事も返って功を相した場合もあった。博打のようなものだな、と口にするとまた間が空く。
「なんかそれ、怖いわね」
物言いが引っかかって、何故だと聞き返した。
「だって、好きになって貰えるか分からないって怖いじゃない」
嫌ではなく怖い、とイリアは口にする。思いを寄せる相手に通じるかどうか、行動に起こして見なければ分からない。人の心はガラスのようだと揶揄されるが、決して中が見えるわけではないのだ。
「怖いと思う前に試せばいいだろう」
「……試すっていうか、なんかそれもズルイ感じがするのよね」
少しだけ眉を寄せた表情に、ほんの少し不愉快さが滲むのが分かった。リカルドの重ねた経験と得てきた感情と、イリアの抱くそれは似ているようで違う。
好いた相手に嫌われるのが怖い、試すなんてしたくない。まっすぐに恋をする、当たり前の思い。当の昔に消えてしまった――あるいは捨てた――感覚がイリアの胸中には残っているのだ。
「本当にミルダの事が好きなんだな」
改めて知らされた思いに、言葉はいつの間にか落ちていた。それはイリアの耳にも届いたのだろう、息を呑む気配が伝わってきた。その分だけ部屋の空気が減って、ぴっと引き締まったような気すらする。次に発せられるのは罵声か怒号か、はたまた嘲笑か。機会を待ちながら手入れを続ける。
「……うん、好き」
顎を引いてはにかむように。ほんの少し伏せた目蓋の奥は見えないが、ほんのりと恋慕に染まった頬があるのだろう。
年を重ねた今でも率直に言うのは気恥ずかしい言葉を、イリアはいとも容易く口にした。気後れすることもなく、躊躇いも恥じらいもせず、ただまっすぐに。どうしてこの場にいるのがルカでなく、自分のなのか。心底勿体無いと溜め息を吐く。
「……それをミルダの前で言えればいいものを」
「ばっ……そんなの言えるわけないじゃない!」
「なら呼んで来てやろうか」
「余計なお世話!」
肩を怒らせて怒鳴る顔に、先程の面影は少しもない。イリアの頬が髪と同じくらい赤く染まったところで、ドアがノックされた。
「リカルドさん、イリア見てません?」
開いた扉からアンジュが顔を覗かせる。イリアの姿を認めると、安堵したように微笑んで見せた。
「ああ、ここにいたのね。ルカ君たちが探してたわよ」
飛び出した名前にイリアの動きが止まる。かと思えば落ち着きなく手指を動かしていて、それがおかしい。
「……ふーん、なんだろ」
ちらりとイリアが視線を寄越す。先程の話は他言無用だとでも言いたいのだろう。手を振って促すと、納得したのか小さく頷いた。
「ジュースありがと、ごちそうさま」
ひとこと残して、立ち上がる。アンジュの隣をすり抜けて、イリアの背が廊下に消える。扉を閉める直前、少し駆け足になっていたのは恐らく無意識のことなのだろう。
「何かあったんですか?」
「銃のメンテナンスと、少し話をな」
イリアの腰掛けていた椅子を引き寄せ、アンジュが腰を下ろす。手元に目をやったまま答えると、そうですか、とだけ声が返る。
「わたしもルカ君と勉強と、少しお話をしてたんですよ」
意味深な口振りながらも、アンジュの表情は楽しげだった。彼女がルカとどんな話をしていたのか仔細は聞くまでもない。
「セレーナ」
隣に座る女性の名を呼ぶ。はい、と穏やかな声が返る。
「まぶしいな」
壜に残ったソーダはすっかり炭酸が抜けている。鬢の向こう側、ぱちり、不意に思い立ったように泡が立ち上がりはじけて消える。瞬きはほんの一瞬で、気づけば消えているのに目の奥にはしっかりと残っている。わずかな瞬きに、ほんの刹那に、少年少女は変わる。
「まったく、まぶしくて困る」
そうやって変わる様を、何かを得て成長していく過程を見守ることの尊さを。自分には一生得ることは出来ないと思っていた、奇跡のような感覚。不意に与えられた幸福は瞬く間に過ぎてしまうのだろう。はじけて消えるまぶしさは、血に濁った目には少しばかり酷ではあるが、辛くはない。
「ええ、ほんとうに」
リカルドの言葉の意味を、アンジュは深く問いはしなかった。それでも何か感じ取ってくれたのだろう、ゆったりと優しげに笑みを浮かべる。その微笑もまたまぶしくて、リカルドも唇を緩め笑った。

初出:2013 
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